盛岡タイムス Web News 2012年 10月 5日 (金)

       

■ 〈大連通信〉51 南部駒蔵 子規とカササギ

 近代俳句、近代短歌の創始者としてよく知られている正岡子規は明治28年4月から5月にかけてここ大連にいた。『日本』新聞の記者であった子規は、日清戦争の国民的な熱狂に促されて、結核を病む病弱な身の上でありながら、従軍を志願、新聞記者として戦場を訪れた。戦争の現場を見てそれを作品としたい、日本が大きく飛躍している時、自分も文学の進歩のために尽くしたいと願ったのである。

  しかし、戦争は休戦、そして停戦へと向かい実際に戦争の現場を見ることはできなかった。子規が見たのは、日清戦争の戦後の光景だった。

  大連(旅順、金州も今、大連市に所属している)は日露戦争の舞台として知られているが、日清戦争の舞台でもあった。日清戦争は近代日本の戦争の時代の始まりを告げる戦争であった。英語では1894(明治27)年の日清戦争を第一次日中戦争、1912(昭和12)年の盧溝橋事件に始まる日中戦争を第二次日中戦争と呼ぶことがある。日本と中国は明治以後、絶えざる緊張関係にあった。両国の戦争の歴史は、日清戦争から始まった。それは同じアジアの国でありながら、欧米化した、「文明国」「大日本帝国」とまだ、相変わらず「野蛮」なままに、朝貢外交を続けようとする清国との戦争であった。

  子規も当時のほとんどの日本人と同様、この戦争を正義の戦争だと信じた。のみならず、これに積極的に参加しようとしたのである。

  子規は明治28年4月10日、兵士や他の記者などと共に、海城丸という船に乗って宇品(広島)港を出発し、13日大連港に入港し、柳樹屯に上陸した。そこから軍の司令部のあった金州に向かう途中、大国の山みな低き霞かな 麦畑や驢馬の耳より舞雲雀 禿山の麓に青き柳かな などという句を交えつつ異国の風土を紹介している。

  その中にカササギが登場する。明治28年5月の新聞『日本』にこんな風に書いている。

  「黒き鳥の腹白く尾長きが飛び交ふを見るに絵に描きたる鵲(カササギ)に似たり。烏鵲(うじゃく)とはこのことなるべし。この外に日本の鳥を見ず。雲雀のちちと鳴きて舞ひ上がるをわづかに聞き得たれど他の小鳥は絶えて見えず。このあたり樹木の少なき故にや」(「陣中日記」)
  子規はカササギを見た時、それが以前、絵で見たことのあるカササギであることに気づいた。またこのあたりに小鳥の少ないことを不思議に思って、その理由は樹木が少ないためであろうかと、推測している。小鳥の種類が少ないという子規の感想はそのまま、百年以上たった今の私の感想でもある。子規が見た鳥を見、子規の詠んだ句を味わいながら大連で過ごしていると、なお一層この異国の風土が親しいものに思われてくる。子規は私にとって大連と日中の近代の歴史の案内者でもある。

  子規見たる カササギを見て  ももとせを 経し日中の歴史  しのぶ
      (元岩手医大教授)


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