盛岡タイムス Web News 2012年 10月6日 (土)

       

■  〈賢治の置土産〉283 岡澤敏男 七つ森から溶岩流へ

 ■「ポラーノの広場」の手直し

  童話「ポラーノの広場」について原子朗氏は「この童話は、先ず長さにおいて、そして戯曲『ポランの広場』をふくむ異稿の存在や、他の作品からの転用、逆に他への部分的転成や引用の度合いから見ても、賢治の童話中の大作であり、最後まで作者が愛着と関(執)心をもちつづけた問題作であったといえよう」(「ポラーノの広場」四次元幻想とアクチュアリティ・「国文学」昭和50年4月号)と評価している。

  たしかにこの童話(85枚)は「銀河鉄道の夜」(83枚)「グスコーブドリの伝記」(69枚)「風の又三郎」(66枚)に匹敵する大作であることは間違いない。この童話の初期形「ポランの広場」は大正13年4、5月頃に執筆され、その第3章を独立させた「ポランの広場」第二幕は同8月に脚色され、昭和2年6月頃に「ポラーノの広場」を作成しているが、晩年(昭和6年頃か)になって、わら半紙に鉛筆で書き下ろした「ポラーノの広場」の末尾のあたりを黒インクで大幅な手直しをし、手入れの際に「四枚分を廃棄して新稿六枚分を挿入する」という修正を行っている。

  原氏はその修正の時期から見て「そこに作者賢治の精神史の過程を透過することも可能であるのかもしれない」と考察しているのです。

  廃棄した4枚分には、イーハートヴの理想郷ポラーノの広場を目指す子どもたちやキュースト(作者の分身)の演説が載っていました。この広場には「風からも光る雲からも諸君にはあたらしい力が来る。そして諸君はまもなくここへ、ここのこの野原へむかしのお伽噺よりも立派なポラーノの広場を作るだらう。」とキューストが叫び、「さうだ、諸君、あたらしい時代はもう来たのだ。この野原のなかにまもなく千人の天才がいっしょに、お互に尊敬し合ひながら、めいめいの仕事をやって行くだらう。」と、キューストはみんなを励まして演説するのです。子どもたちは各自が冬に作った皮革製品、チョッキ、帽子、木工品などを持ち寄って「お互で取り換えようねぇ」と自給自足経済の物々交換を話し合っているのです。

  これらの発言は明らかに羅須地人協会の活動と交錯するものです。キューストの「風からも光る雲からもあたらしい力が来る」は、「農民芸術綱要」の「農民芸術の製作」で提唱する「風とゆききし 雲からエネルギーをとれ」と重なり、子どもたちの物々交換の考えは、羅須地人協会の「集会案内」にあった「冬間製作分担の協議」に重なるもので、分担内容に「農民服、帽子、皮帽子、ルパシカの紐、木工」があったことを回想する協会員の話と重なり、「綱要」の「農民芸術の分野」の一節である「光象生活準志によりて 建築及衣服をなす」「光象各異の準志によりて 諸多の工芸美術をつくる」とも重なっている。

  このように、羅須地人協会時代の賢治の思想がうらうちされていた4枚分がなぜ廃棄されるべきだったのか。そのナゾは最終章の「それからちゃうど七年にたったのです」以下の新稿の文章をみれば明らかになるでしょう。「ファゼーロたちの組合ははじめなかなかうまく行かなかったのでしたが、…それから三年の後にはたうとうファゼーロたちは立派な一つの産業組合をつくり、ハムと皮類と酢酸とオートミルはモリーオ市やセンダードの市はもちろん広くとこへも出るやうになりました」という産業組合の事業と、削除稿の自給自足の経済思想が入れ替わっていることなのです。

  ■廃棄された四枚の原稿の一部(抜粋)

 ぼくらはだまってやって行かう。風からも光る雲からも諸君にはあたらしい力が来る。そして諸君はまもなくここへ、ここのこの野原へむかしのお伽噺よりもっと立派なポラーノの広場をつくるだらう。」みんなはよろこんで叫びだしました。ファゼーロが言ひました。「ぼくらはねぇ、冬の間に勉強しゃう。みんなで同じ本を読んで置いて、五日に一晩あそこの工場に集まってかはるがはるたづねたり教へたりするっこしやう。」(中略)「ぼくらは冬にあの工場へ集まったりしていろいろこさえやうぢゃないか。ファゼーロが皮を染めたりするだらう。ぼくはへただけれどもチョッキやはつくれるよ。ミーロはいつでも上手に帽子をこしらえてゐるんだから仕事にやったらもっと上手にできるだらう。」「さうださうだ。ぼくらは冬につくったものをお互で取り換へようねぇ。ぼくは木をくってこしらえるものなら好きだよ」(以下略)



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