盛岡タイムス Web News 2012年 10月 11日 (木)

       

■ 〈岩手からのカナダ移住物語〉24 菊池孝育 水沢立生会A

 阿部松之進は宮城県人ながら立生会の役員に名を連ねたことには、幾つかの理由があったと考えられる。

  明治初頭の水沢県には、宮城県北の本吉、登米、栗駒の諸郡が含まれていたこと、維新前は水沢留守藩、一関田村藩とも仙台伊達藩の版図であったことなどにより、いまだ同郷意識が残っていたものと考えられる。

  さらには、岩ヶ崎城主(伊達藩重臣)の娘伊予子が留守藩主留守宗衡に嫁したとき、同行した侍女が阿部松之進の叔母であった。その叔母が水沢で斎藤家に嫁いだ。彼女の息子が斎藤實であった。従って斎藤實と阿部松之進はいとこ同士に当たる。

  監査役に選ばれた吉田愼也の祖母は斎藤家の出とされる。斎藤實を挟んで阿部と吉田は親戚関係にあった。東京立生会の大物が斎藤實であったとすると、バンクーバー立生会の運営を、吉田の一回り以上年長の阿部に託したのは当然である。吉田愼也はその時若冠23歳であった。

  阿部松之進はバンクーバーで魚類仲買業を営んでいた。日本人社会の有力者の一人で、後にカナダ日本人会の会長にもなった。

  吉田愼也と他の胆江地区出身者はほとんどスティブストンに住んでいた。バンクーバーから西南に18`ほど離れている。バンクーバーに常住している阿部に会務を委ねざるを得なかったと考えられる。

  明治39年になって、会の役員から阿部の名前は消え、内田盛と吉田愼也の2人になっている。2人ともバンクーバーにはたまにしか顔を出さない。その間の実務は長嶺ゲンが担ったものと考えられる。発足からほぼ1年後に第五街(East 5th)からパウエル街に移転した。ゲンの住居と日本人美以教会は、水沢立生会と近接することになった。県人会の実務を見るには、ゲンは最適であった。

  設立の趣旨に「郷人の和親と啓発と保護を目的」という表現がある。他の県人会の規約を見ても「啓発、保護」などの文言はない。岩手県人会独特の運営方針であった。これはゲンの信条が色濃くにじみ出たものと理解できる。立生会そのものは多数の水沢出身者の思いであったが、運営には単なる和親にとどまらず、岩手からの移住者の窮状打開と資質向上を図ろうとする強い意欲が感じ取れる。そもそも立生には啓発の精神が含まれていた。

  先に述べたように「立生會」は水沢留守藩の学問所である立生館にちなんで名付けられた。立生館の教学の精神とした論語の「本立道生(本立って道生ず)」に由来するからである。

  藩学設立を藩主宗衡に強く働き掛けたのは、時の家老吉田権太夫秀光であった。吉田愼也の曾祖父に当たる。後藤新平や斎藤實も立生館で学んだ。2人とも特別の思いで吉田愼也とバンクーバー立生会を支援し続けたものであろう。本部の支援がなければ、たかが30人前後の会員で3千数百ドルの資産を生み出せるはずはないのである。

  当初の会員は35人であったが、翌年には26人となっている。出稼ぎ移民が多く、定住者が少なかったことを物語っている。


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