盛岡タイムス Web News 2012年 10月 18日 (木)

       

■ 〈岩手からのカナダ移住物語〉25 菊池孝育 吉田愼也

 バンクーバー岩手県人会水沢立生会の生みの親は疑いなく吉田愼也である。吉田の人となりについては拙著「岩手の先人とカナダ」の[スティブストンの侍]に詳しい。この稿では愼也のカナダ移住についての考え方を主として取り上げたい。

  吉田愼也は明治15年、奥州市水沢区新小路二十四の一で生まれた。当時の住所は胆沢郡水沢町塩竃一一六番地である。彼の祖父権兵衛、曾祖父権太夫は留守藩の家老を務めた。彼は18歳の時、サンフランシスコに渡った。その時の旅券の記録である。

  「旅券番号一二三九、吉田愼也、族称平民、身分源三三男、本籍地胆沢郡水沢町一一〇番戸、年齢十八年五ヶ月、旅行地北米合衆国、旅行目的商業、下付年月日明治三十三年六月九日」

  族称平民となっている。留守藩は仙台伊達藩の支藩であった。維新後、支藩の藩主以外の藩士(陪臣)は特例を除いて平民とされた。水沢の武士の子弟は、そのことに不満を抱きながら、北海道の開拓や、海外移住を志したのである。先に述べた下飯坂兄弟や愼也などは海外移住を選択した。愼也の旅行目的となっている商業は、旅券を取得するための便法であった。渡航費用は父源三から与えられた。愼也は三男であるからいずれ分家させなければならない。財産分与の前払いの意味で出したといわれる。それに斎藤實などの親戚からの餞(はなむけ)も多額であった。

  サンフランシスコ到着後、直ちにアメリカ人家庭にハウスボーイとして住み込んだ。移民斡旋業者を経た渡航であった。

  愼也は後年、サンフランシスコ時代のことをあまり人に語りたがらなかった。ハウスボーイは、当時の日本の下男の仕事であった。外国とはいえ、家老の末裔(まつえい)が掃除洗濯、走り使いをしなければならないことに、忸怩(じくじ)たる思いがあったものであろう。養女清子にだけはサンフランシスコ時代の暮らしぶりについて語っている。次はその要旨である。

  朝六時の起床であった。家屋内外の清掃と洗面朝食に二時間を要した。八時に登校した。十歳前後のアメリカ人の子供たちに交じって英語を勉強した。初め子供たちの揶揄(やゆ)嘲笑の対象であった。愼也は相手にしなかった。あるとき、手製の木刀で剣術の形を子供たちに見せた。木刀が空気を切り裂く音に子供たちは驚いた。その日から子供たちの愼也を見る目が畏敬のまなざしに変わった。愼也は幼少の頃から剣術の稽古に励んでいたのである。日本人としては大柄で腕力も人一倍強かった。日頃寡黙な愼也であったが、剣術の話になると人が変わったと思われるほど饒舌(じょうぜつ)になったといわれる。

  昼に下校して、雑用をこなした。芝生の手入れ、菜園での野菜作り、薪(まき)割りや薪の運搬、時には買い物などが主な仕事であった。夕食後は比較的自由であった。読書や英語の予習復習に費やした。日曜日は家族と教会に通った。牧師が愼也の英語の面倒を見てくれた。牧師との対話が英語上達に大いに役立ったとされる。このころの愼也は読書と英語学習に没頭することで孤独感を癒やしていたのであった。


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