盛岡タイムス Web News 2012年 10月 19日 (金)

       

■ 〈大連通信〉55 南部駒蔵 旅順

 5月6日、日曜日朝6時、李さんをガイド役に、富山県の清水さんと合わせて3人で、旅順を訪れた。行きはバスを利用することにして、大連駅から電車で旅順に向かう。列車の進行に沿って、桃の花のピンク、リンゴの花の白、桐の花の紫、迎春花(オウバイ)の黄色と、色とりどりの花があちら、こちらに見える。家屋は大連市内と違って一戸建て、2階建てが多い。農地を売って金持ちになった人々の住宅だという。大連の人々の海水浴場となっている夏家河子海浜浴場もある。遠浅になっていて人々が何か採っている姿が見える。渤海湾である。

  中国の列車には「ジェンジヤー(乗察)」と呼ばれる警察官が乗っている。日本の列車のなかで警察官を見ることは少ないので、不思議に感じる。これは大学でも同じで、中国では、大学によく「公安」と記されたパトカーが来ている。日本の列車に、また大学に警察官の姿が見えないのは、それだけ治安が良いからである。日本の治安の良さ、あるいはマナーの良さは、世界に誇るべきものである。海外に出て初めて、そういう日本の良さに気付かされるのも、旅の良さである。

  列車内はのどかなもので、隣のボックスの人たちはトランプに興じている。男が1人、4、50代の女性が3人、合わせて4人でポーカーをやっていて、にぎやかに笑い、楽しんでいる。これも日本では見られない光景である。

  旅順はすべて山だとばかり思っていたが、列車から見ると、小さな町があり、ところどころ、家屋も連なっている。大連駅から一時間半ほど、鉄道沿いの風景を眺めながら、話しているうちに旅順駅に着く。

  旅順駅は帝政ロシア人が造った建物でロシア風の青いとがった屋根が印象的である。ロシアはシベリア鉄道を延長して、大連、旅順までつなげた。ヨーロッパとアジアがこうして一本の鉄道でつながった。まだ飛行機の飛んでいない時代のことである。

  ロシアは当時、小さな漁村に過ぎなかった大連(当時ロシア語でダーリニーと読んでいた。「遠いところ」という意味だという。それを「大連」と改名したのは日本である)を商業都市として計画し、さらに旅順とつなげた。旅順港は天然の要塞であり、軍艦を持ち、不凍港を求めていたロシアにとって、のどから手が出るほどに欲しい港であった。

  一方、それは日本人にとって脅威となった。南下してきたロシアは朝鮮半島を支配し、やがては日本をのみ込もうとする、日本はロシアの植民地になる、そういう不安を多くの日本人は抱いた。日清戦争で勝利したのに、ロシア、ドイツ、フランスの3国が日清の戦後処理に干渉、大連を含む遼島半島割譲の約束をほごにされた。その後、ロシアは遼島半島を清国から割譲し、中国に権益を広げていった。「ロシア憎し」の声は国民の間に激しく高まっていった。戦争は憎しみから起こる。憎しみの背後には、正義感もある。やがて日露戦争が始まる。

  正岡子規がこの旅順に来たのは、日露戦争の10年前、明治28年のことで、日清戦争の従軍記者として戦場のありさまを記録したいと考えて、病態を省みず、押してやってきたのだった。東京を出発したのが3月3日、広島の宇品港を出発して下関を経て、大連湾に着いたのが4月13日、大連湾の柳樹屯に上陸したのは3月15日で、それからちょうど1カ月、5月15日に帰国の船に乗っている。

  日清戦争は朝鮮半島の支配権をめぐる日本と清国の戦争で、1894(明治27)年7月の豊島沖開戦に始まり、翌年4月、日清講和条約によって収束した。

  子規が大連に来たのは28歳の時で、子規の人生にとって重要な意味をもっている。それはこの従軍によって病気を一層悪化させたということである。22歳で結核の発病をみた子規は、苦しい従軍体験によって病気を悪化させ、脊椎カリエスとなった。今から100年余り前のことである。

  私たち3人組は旅順駅からタクシーに乗って小高い山・白玉山に登った。白玉山の頂には白玉搭(日露戦争勝利記念塔)がある。白玉塔は、かつて「表忠塔」と呼ばれ、日露戦争の後、海軍連合艦隊司令官、東郷平八郎と陸軍第三司令官、乃木希典が日露戦争で亡くなった兵士の霊を慰めるために建てたものである。1945年、侵攻してきたソ連軍によって「表忠塔」の3文字は消され、以来、白玉塔と呼ばれるようになった。

  白玉山から見下ろすと旅順口が手に取るように見渡せる。老虎尾と黄金山の間は旅順港の「口」のように見える。また、半島が虎の尾の形に見え「老虎尾」と名付けたのもうなずける。黄海の一部を静かな湖のように囲みとってここを軍艦の港としたのもよくわかる。旅順港はまさに「天然の軍港」であった。

  ここで子規の「陣中日記」(新聞「日本」に連載発表された)のコピーを取り出して確かめる。

  子規は大連港から船で旅順口に入った。その船から黄金山の砲台を眺めて、「砲台の舳(へさき)にかすむ港かな」と詠んでいる。それに続けて「港口には軍艦数艘(そう)あり。港内に入れば、軍艦、商船、大船、小船、ところ狭きばかりに居並べり。こここそ、彼にありて唯一の港なるを今は我らのものになりて数ならぬ身も肩に風を生ずるの思ひあらしむ」とある。日露戦争で日本が戦ったのはロシアのバルチック艦隊であるが、日清戦争では清国の北洋艦隊を敵として戦った。旅順はその戦いの舞台の一つで、明治27年11月大山巌大将の指揮のもと、その要塞を陥落させた。子規がここを訪れたのは、それから5カ月くらい後のことである。すでに豊島沖の海戦、黄海海戦で、清国の北洋艦隊に大きな打撃をあたえていたが、その本拠地の港を掌中に収めようとしたわけである。

  子規は北洋艦隊を滅ぼし、旅順港をわがものとした大日本帝国の活躍を思い、勝者の誇りを感じている。

  その後、船から上がって旅順市内に入っている。日記には「われらの宿所は旅順市最高所にあり。ここより下瞰すれば2本の帆檣(はんしょう、帆柱)、屹然として眼下に聳ゆるもの填遠なり。」とある。「填遠」は、清国の巡洋艦で日本に拿捕(だほ)されていたのであろう。重装備に身を固めた清国の軍艦を見て、勇み立つような思いにかられた。私も旅順駅近くの海に中国の軍艦を見て、心昂(たか)ぶるような思いを味わったことを思い出す。

  子規は高所にあった宿舎から黄金山や老虎の尾の砲台など眺めて「見渡せば山又山、山てんの砲台は左右前後あい望んで蟻の這ひいる隙もなき天然の要害一朝にして土崩瓦解する国の末こそはかなけれ。」と記している。単に日本軍の勝利を喜ぶのでなく、これほど堅固な要塞が破壊されたと、敗者の側に立って、その哀れを感じている。心優しい文人の魂がそこにある。

  それにしても子規が書いているように、旅順港は軍港であり、そこに停泊する軍艦を守るために周囲の山々にはいくつもの砲台が据えられていた。子規は翌日も老虎尾や黄金山、威遠、蠻子営、饅頭山などの砲台を見学し、蠻子営では「外側に蒲公英(タンポポ)咲ける台場かな」と詠んでいる。旅順港に浮かぶ黒い軍艦とそれをこれらの山々から狙い打つ大砲を想像して、近代の戦争のスケール大きさを思い描くと同時に、子規の心を想像した。子規は恐ろしい威力をもつ近代的な兵器、大砲を見て、その傍らに咲く蒲公英に目をとめている。蒲公英のかわいい花が不気味な砲台と対照的である。それは今、休戦となった安らぎを物語っているようでもある。

  明治28年4月17日、日本全権伊藤博文、陸奥宗光と中国の李鴻章との間で日清講和条約(下関条約)が締結された。子規は、もはや従軍記者としての存在意義を失い、同時に、軍隊の差別待遇に深い屈辱、怒りを覚えつつ帰国する。

  白玉塔を訪れた後、私たちは二〇三高地を訪れた。二〇三高地の麓には山桜が千本余りも植えられていて、今、ちょうど満開だった。これらの桜は戦後、日中の平和と友好を祈って植樹されたものだという。まるで日本の公園にいるような気分になるのは、毎年春になるたびに花見を楽しんでいるせいであろう。

  二〇三高地は日露戦争の最も有名な激戦地である。子規は明治35年に亡くなったが、その2年後、日露戦争が勃発した。それは日清戦争と比較にならない多くの犠牲者を出した。海抜203bの当時ははげ山だったというこの地でもロシア軍の死傷者が5千人、日本軍の死傷者が1万人もあったという。

  日露戦争の時、陸軍の大将であった乃木希典は次男の保典を二〇三高地で(長男の勝典を金州で)死なせているが、戦後、亡くなった兵士たちの霊を弔うために砲弾の破片を集めて高さ十メートル余りの、砲弾型の慰霊塔を建てた。「爾霊山」と記されたその文字は山の高さを表すと同時に爾(中国語でニー)の霊の眠る山、という意味を含んでいる。さらにまた「爾霊山」と題する漢詩を作っていることもよく知られている。

  爾霊山(ニーレイサン)は嶮(けん)なれども 豈(あに)攀(よ)じ難からんや。
  男子功名 克艱(こっかん)を期す。
  鉄血山を覆ふて 山形改まる。
  萬人(ばんじん)齊(ひと)しく仰ぐ 爾霊山。

(爾霊山は険しい山だが、どうしてこれを登れないことがあろうか。帝国男子たるもの皆、功を立てようと、困難を乗り越えようと決意している。そうして戦った後に、兵器の残骸、累々たる屍が横たわり、それは山の形すら変えんばかりである。この地に立つすべての人は、ここでかくして戦死した兵士らを思い、黙然と爾霊山を仰ぎ見るのである)

  与謝野晶子の「君死に給ふことなかれ」は多くの教科書にも取り上げられて、反戦の詩として名高いが、この漢詩の方が影響力が大きかった。明治の日本人は「これほど多くの血を流してこの地を獲得したのだ、われらの父祖の血が流れているこの旅順│満州を手放すわけにはいかない」というのが多くの日本人の思いとなっていった。

  続いて私たちは東冠山のロシア大砲陣地を訪れた。山頂に残る、まだ黒光りして旅順港に向けられた大砲の上に乗って、李さんは手を空に高く掲げた。山頂の大砲は人を英雄に誘う働きがあるようだ。青空の下に広がる静かな旅順港を眺めて、海と陸との攻防、この地を奪わんとして険しい山の斜面をよじ登る大日本帝国の兵士たち、それを上から迎え撃つロシア兵、どう考えても上にいるロシアが有利ではないか。隠れるところのない、はげ山を穴を掘りつつ、つき進む兵士たち。ごう音と地響き、大量の血、うめきもがき、苦しむ兵士、大砲に吹き飛ばされて舞い上がる人体‥この山々は人の血で固められている。そんな思いが浮かぶ。映画でも見るような広大なスペクタクル、それは映画ではなく、現実であった。

  旅順港は近代の戦争の重要な舞台であった。そして今でも中国の海軍の軍港であり、入ることのできない、見ることのできない場所がある。

  その半面、大連交通大学や遼寧師範大学、大連外国語学院など大学が続々と旅順に移転しつつある。旅順は学園都市としての新しい顔を持ちつつあると言ってよいだろう。

  砲台の 残る要塞 訪れて タンポポ咲くと 詠みし子規はも
  大砲の ここより飛んで  船を撃つ 轟音今も 空に聞こゆる
  銃弾の 跡あまたあるトーチカに 死にし兵士の御魂いづくに
(元岩手医大教授)


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