盛岡タイムス Web News 2012年 10月 20日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉285 岡澤敏男 肥料設計相談

 ■肥料設計相談
  昭和2年における賢治の〈善意〉と〈無償〉の活動は肥料設計にも及んでいる。各地の肥料相談所(いちの川、額縁屋、三新、旧郡役所土木事務所、石鳥谷、蓄音機屋、日詰、大田村)で農民たちに肥料設計を行いました。石鳥谷の相談所は、一里塚の向かい合わせの店先の八畳敷と土間に、荒削りの大きな卓子と火鉢二三個、四周の壁には三色で無造作に描かれた肥料と水稲との関係の図が十数枚貼られ、風にガワガワゆらいでいた。

  「十五日より一週間午前八時より午後四時まで、休む暇もなく続けざまに肥料の設計を行ったが日毎に人が増える許り、それに先生は次の場所も又次の場所も決まってゐるので、やっとの事で今日、以前にお気の毒のだったひと達の清算に来られる事になってゐた。七時半の列車に迎へると先生はいつもの最初の感じで…親しげに笑みをたゝえてをられた。例の固い羅紗の鳥打帽子に茶羅紗の大きめの洋服、それに又大きなゴムのだるま靴を穿かれ、鞄を抱へた左肩を斜に上げて、右腕を大きく然かも元気よく振って急いで来られた。百姓たちはみんな家の外に出て迎へた」
   (菊地信一、教え子で羅須地人協会会員)

  今年度の施用肥料の設計に農民たちは一時に質問をするのを、賢治はひとつひとつ平易な言葉で、適切に順々と説明し昼までに30枚ほどの設計を終えた。午後は稲作と肥料に関する講演を乞われ、室内にあふれ戸外に筵(むしろ)を敷いて聴講する人々に、実地に即して平易な言葉で語りかけた。この肥料設計は6月までに2000枚を越えるほどだったという。

  その年は天候不順であった。賢治はそれを見越して陸羽一三二号種を極力勧め、それによって設計したところの農家は二割ほど増収を得たという。これを聞かずに施肥の斟酌(しんしゃく)もせずに亀の尾一号などを使った人たちの稲田は若干倒伏して、それを気遣い賢治は暑い日盛りを幾度となくそれらの稲田を見回ったという。

  昭和3年も「稗貫地方は7月より旱天が四十日に及び、稲熱病の発生などの手当て・稲作指導・測候所への問合せに奔走、疲労困憊のあげくついに倒れる」(堀尾青史『年譜・宮沢賢治伝』)のです。賢治はこの日より豊沢町の実家に病臥し四十余日の病床生活に入り、羅須地人協会の活動も肥料設計も中断することになった。

  やっと病気から再起できるまでに回復した昭和6年頃、「ポラーノの広場」先行稿(鉛筆稿)の「六、風と草穂」に黒インクで手を入れラストの部分の4枚分を削除し6枚分の新稿を加えた大幅な修正に着手しました。これによってキューストの情熱的演説やファゼーロや子どもたちが労働しつつ勉強してよい道を生きようとする場面が削除され、そこにあったイーハトヴの理想郷として未来を志向するユートピア的性格が消えて、「それから七年後」のきわめて現実的な広場が描かれています。ファゼーロたちは立派な産業組合をつくり、「ハムと皮類と酢酸とオートミルはモリーオの市やセンダードの市はもちろん広くどこへも出るやうに」なったが、キューストは大学の副手、農事試験場技手をへてトキーオ市の新聞記者になってファゼーロたちと疎遠になっていくのです。

  それは、かつての自給自足経済構想と異なる産業(協同)組合との疎遠であり、「場所と方法を全く変えてもう一度やってみたい」賢治のユートピア志向にあったと思われます。

  ■高橋露への書簡(下書)・昭和4年日付不明
お手紙拝見しました。法華をご信仰なさうですがいまの時勢ではまことにできがたいことだと存じます。どうかおしまひまで通して進まれるやうに祈りあげます。そのうち私もすっかり治って物もはきはき言へるやうになりましたらお目にかゝります。
根子では私は農業わづかばかりの技術や芸術で村が明るくなるかどうかやって見て半途で自分が倒れた訳ですがこんどは場所と方法を全く変へてもう一度やってみたいと思って居ります。けれども左の肺にはさっぱり息が入りませんしいつまでもうちの世話になって居られませんからまことに困ってゐます。
私は一人一人について特別な愛といふやうなものは持ちませんし持ちたくもありません。さういふ愛を持つものは結局じぶんの子どもだけが大切といふあたり前のことになりますから。
   尚全快の上。



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