盛岡タイムス Web News 2012年 10月 24日 (水)

       

■ 〈口ずさむとき〉304 伊藤幸子 水戸の殿さま

 朽残る老木の梅も此宿のはるに二たびあふぞ嬉しき
                           徳川光圀

 出版と同時に大きな反響を呼んでいる冲方丁氏の「光圀伝」を読んだ。あまねく日本中に知れわたる葵のご紋の黄門さま。しかし史実に基づく水戸のご老公の人となりについてはあまりに知らないことが多すぎると、このぶあつい本の人間模様に感じ入った。750ページ、飛び飛びに読んではついていけない。なにしろ東照権現家康公の孫にあらせられる。父頼房は将軍家康の第十一子として伏見城に生まれた。関ヶ原合戦の3年後、家康と側室於万(おまん)の方の子で家康62歳、於万は24歳の時のこと。

  光圀は寛永5年(1628)水戸の城下に生まれた。頼房の長男頼重、次男亀丸は早世、三男が光圀。幼時期長丸、子龍(しりょう)と呼ばれていた。母谷久子は側室。7年前に生んだ頼重のときも、光圀のときも、頼房は懐妊を喜ばず「水にせよ」と指示したという。頼房には久子の他にもあまたの側室があり、11人の男子と15人の女子に恵まれたと伝える。

  光圀6歳のとき、水戸家の世子に決められた。病弱とはいえ、兄頼重を讃岐高松藩に移送のことが、のちに兄の子を水戸に迎えるという光圀の「義」の形になってゆく。読んでいて「何で?」といくつも疑問がわくのだが「正妻を娶らぬことが、義となるからです」などと言わせる。兄が水戸家を継ぐべきだったので、せめて娶らぬことで兄への詫びとしたいというひたむきさには今の世からは理解しがたい面である。

  やがて18歳ともなると、はじめて「史記」の伯夷伝を読んで感動し、学問への情熱がたぎり、「大日本史」編さんのため、全国的に資料収集を行うことになる。あたかも強烈な磁場を求めて、史学国学の士のみならず、星を観測する安井算哲も登場する。

  私は映画「天地明察」(冲方丁原作)も見たが、そこには壮年の博学者光圀公が青年達に日本の未来を語る姿があった。いつの世も、時代に先がけて研鑽を積む若者たちは頼もしい。

  この作品で読者を異様な興奮に誘うのが、臣下藤井紋太夫を光圀自ら手討ちにする場面。「大義なり、紋太夫!」と迸(ほとばし)る殺気のもと、鋭い刃先が肺から心の臓を貫いた―。

  水戸市は歴史を感じさせる古い町だ。掲出歌の梅は光圀誕生梅として、水戸家の墓地瑞竜山に育つ。私が西山荘を訪ねたのは30年も昔か。さんざしの植え込みが青々と、萱ぶきの軒近く静かな円窓に影を落としていた。

(八幡平市、歌人)



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