盛岡タイムス Web News 2012年 10月 25日 (木)

       

■ 〈岩手からのカナダ移住物語〉26 菊池孝育 吉田愼也(2)

 明治36年、愼也はサンフランシスコの白人家庭で、ハウスボーイとしての3年間の契約を終えた。そして突如、バンクーバーに姿を現す。しばらくマリン・ドライブ1771の下飯坂武次郎宅に寄宿した後、スティブストンに移って漁業に従事することになる。

  その後の愼也については、カナダで発行された1979年2月13日(火)付「大陸時報、THE CONTINENTAL TIMES 」紙上の「街名になった吉田愼也氏の事ども」の記事を中心に紹介したい。記事は次のような文章で始まる。

  「リッチモンド市の百年祭に際し、街名になった吉田愼也氏は、仙台藩の上層家老の家に生まれた人で、いかにも応揚で落ち着いた人がらであった」。

  筆者の平山一郎は日系二世で、在カナダ日系社会の発展に尽くした功労をたたえられ、昭和59(1984)年春、日本政府から勲四等瑞宝章を授与されている。若い時、スティブストンで愼也の薫陶を受けた一人であった。同年10月5日、マニトバ州ウイニペッグで死去、71歳であった。

  「仙台藩…」は仙台伊達藩の支藩(水沢留守藩)と読み取るべきであろう。

  「留学生として渡加して来られた当時、私の父の漁業のパートナーとして数年働いたことがあったように聞いておるが、余り良いパートナーではなかったらしい。時間さえあれば本を読みふけって漁業には熱意を示さなかった」。

  平山一郎の手書き自伝「カナダの移民の子」によると、一郎の父(明治11年生まれ)は明治40(1907)年、カナダに渡っている。愼也がサンフランシスコを経てカナダの土を踏んだのは明治36、7年頃であるから、愼也の方が3、4年先着者であった。年齢は平山の方が4歳上になる。しかしこの時、愼也はスティブストン日本人漁者慈善団体の監査役に選任されていて、弱冠26歳ながら指導層の一人になっていた。30歳の平山の方が指示に従う立場にあったらしい。個人的には、二人は馬が合う間柄だったことは確かだ。のっそりとして、素早い行動を苦手とする愼也と反対に、平山はテキパキとした働き者であった。二人のパートナーシップは一郎が生まれる大正2(1913)年頃まで続いた。というのは、この年、愼也は漁者慈善団体の副団体長兼付属病院監督に選任され、同団体の専従役員となったため、平山のパートナーは解消せざるを得なかったのである。そして同年5月、故郷から伴侶としてサラ夫人を迎えたのである。愼也は31歳になっていた。

  「後年、A・B・Cパッカーのコレクター(魚を集める仕事)をされていたころに、日系人漁者もガソリン・エンジンの漁船を使えるようになったが、誰一人としてガソリン・エンジンの知識のあるものはなかったので、毎日故障で流されるものが多かった。吉田さんは毎日フレーザー河の河口にいかりを入れて、流されて来る日系人漁者のボートを拾って故障を直してあげたが、ガソリンのないものやバッテリーのコネクトの悪いものも多かった。吉田さんのエンジンの知識は、もちろんブックから得たものであったが、それでも漁者には有り難いエンジニアであった」。


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