盛岡タイムス Web News 2012年 10月 27日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉286 岡澤敏男 新しい活路を死の直前まで

 ■新しい活路を死の直前まで
  「兄さんが、農学校に長く満足して勤めるとは思いませんでした」と妹シゲさんが予感していたとおり、賢治が花巻農学校の教師を4年4カ月で退職してしまった。賢治の内部には「いつも何かを求め」「新しい世界を作ろう」とする性分があり、シゲさんはそれを熟知していたのです。大正15年3月、賢治は教師を辞めて羅須地人協会を設立し「刻々に疲弊しゆく農村」の救済に自給自足経済による「新しい世界」を目指して農民講座や肥料設計相談の活動をスタートしました。賢治はリンゴ栽培を勧めた照井春蔵に「農民の生活を楽にするには貨幣を使っての経済はだめで、物々交換でなければならない」とよく言っていたという。現金収入の少ない農民にとって確かに自給自足による物々交換は理想で、そのユートピアが鉛筆稿(先行稿)の「ポラーノの広場」に描かれていたのです。しかし昭和3年8月に病気で倒れてしまい、足かけ3年という短期間で「新しい世界」を志向する夢も挫折してしまった。もはや農耕の従事も、近所の子どもたちにグリムやアンデルセンや自作の童話のお話し会、レコードコンサート、器楽演奏、農民芸術や農業科学(土壌学、植物生理、肥培原理等)の講義も肥料設計相談・稲作指導の活動も再開できなくなった。だが、病床生活のなかで賢治の理想の残り火を吹きながら再燃させる方策をいろいろ検討していたものと思われる。

  昭和4年の高瀬露(前回は高橋と誤記)宛の手紙の下書きに「根子では私は農業わずかばかりの技術や芸術で村が明るくなるかどうかやってみて半途で自分が倒れた訳ですがこんどは場所と方法を全く変へてもう一度やってみたいと思ってゐます」と書かれており、昭和5年3月10日には伊藤忠一宛に「根子ではいろいろお世話になりました。…殆んどあそこでははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもので何とも済みませんでした。どうかあれの中から捨てるべきは、はっきり捨て再三お考になってとるべきはとって、あなたご自身で明るい生活の目標をおつくりになるやうねがひます」と述べている。4月4日の高橋(沢里)武治宛てには「こんどはけれども半人前しかない百姓でもありませんから、思ひ切って新しい方面へ活路を拓きたいと思ひます…もう一度新しい進路を開いて幾分でもみなさんのご厚意に酬ひたいとばかり考へます」と、新しい活路を模索している様子がうかがえる。つぎに示すもう一通は昭和8年9月11日(賢治が死去する十日前)に教え子の柳原昌悦に発信された書簡です。

  「どうも今度は前とちがってラッセル音容易に除こらず、咳がはじまると仕事も何も手につかずまる二時間も続いたり、或いは夜中胸がびうびう鳴って眠られなかったり、仲々もう全い健康は得られさうもありません。…あなたがいろいろ想ひ出して書かれたやうなことは最早二度と出来さうもありませんがそれに代ることはきっとやる積りで毎日やっきとなって居ります。しかも心持ばかり焦ってつまづいてばかりゐるやうな訳です。私のかういう惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病、「慢」といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します。(以下省略)」

  これは現存する最後の書簡で、賢治が死ぬ直前まで根子時代の路線に代るべき「新しい活路」を焦慮してやまない心情が切々と伝わってきます。

  ■詩篇「眼にて言ふ」(『疾 中』より)
だめでせう
とまりませんな
がぶがふ湧いてゐるですからな
ゆふべからねむらず血も出つづけてゐるもんですからそこらは青くしんしんとして
どうも間もなく死にさうです
けれどもなんといゝ風でせう
もう清明が近いので
あんなに青ぞらからもりあがって沸くやうに
きれいな風が来るですな
  (中略)
こんなに本気にいろいろ手あてもしていたゞけば
これで死んでもまづは文句もありません
血がでてゐるにかゝわらず
こんなにのんきで苦しくないのは
魂魄なかばからだをはなれたのですかな
たゞどうも血のために
それを言へないがひどいです
あなたの方からみたらずゐぶんさんたんたるけしきで せうが
わたくしから見えるのは
やっばりきれいな青ぞらと
すきとほった風ばかりです


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