盛岡タイムス Web News 2012年 11月 3日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉287 岡澤敏男 「大宗教」構想か

 ■〈大宗教〉構想か
  昭和3年9月23日の高橋(沢里)武治あての書簡に「八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り、すがすがしくなりました」とあるように、賢治は無理を重ねて倒れ8月より桜の別宅を離れて本宅(別棟階下)に病臥することになった。武治宛の書簡にある9月下旬に小康を得たが高熱が断続し昭和5年初め頃まで療養生活をしている。この病気中に書かれた詩稿の作品群が「疾中」に収められ、その中に〔あゝ今日ここに果てんとや〕という詩篇がある。

 あゝ今日ここに果てんとや
  燃ゆるねがひはありながら
  外のわざにのみまぎらひて
  十年はつひに過ぎにけり

 懺悔の汗に身をば燃し
  もだえの血をば吐きながら
  たゞねがふらく蝕みし
  この身捧げん壇あれと

 ここには高熱と発汗に死を意識した賢治が、内には「燃ゆるねがひ」を秘めながら「外のわざ」にのみ紛れて「十年はつひに過ぎ」たという深く懺悔する姿勢がみえます。この内外の関係は〔黒つちからたつ〕の詩の「きみたちがみんな労農党になってから」(外)「ほんとのおれの仕事がはじまるのだ」(内)に比擬される得るのか。そうだとすると外部とは農民や労働者のことで、労農党や羅須地人協会の活動にのみ紛れて、内部にある「ほんとのおれの仕事」を果たさず「十年」が過ぎたと懺悔しているのか。「ほんとのおれの仕事」を境忠一は「妙法蓮華教を祈念する宗教的救済」ととらえ信仰者賢治の姿が強調されている。たしかに羅須地人協会が挫折してのち、賢治が〈大宗教〉を構想していたふしがある。

  昭和4年2月、『銅鑼』の同人で中国留学生の黄瀛(こうえい)が賢治を訪れて対談した際に「私は宮沢君をうす暗い病室でにらみ乍ら、その実はわからない大宗教の話をきいた。とつとつと話す口吻は少し私には恐ろしかった」と述べている。上田哲は賢治が黄瀛に語った〈大宗教〉を法華教を中心にしながら「神秘主義的・シャーマニズム的要素をもった重層信仰」(『宮沢賢治・その理想世界への道程』)を構想したシンクティズムであろうと解釈している。

  また昭和7年4月13日、佐々木喜善も賢治を訪れて宗教論に時間を過ごしたらしい。喜善の日記に「午後三、四時間話す」とあるが、喜善は大本教信者であり賢治の〈大宗教〉論との間に重層信仰(シンクレティズム)の話題が飛び交ったのかも知れない。一つの家に仏壇と神棚が共存していて不思議でない日本人の宗教意識にはシンクレティズム的傾向が強いといわれる。

  賢治が法華教とどんな異宗教と融合させた〈大宗教〉を構想したか全く手掛かりもなく不明であるが、黄瀛や喜善との対談に賢治が〈大宗教〉論を語ったことは確かであろう。それがはたして「この身捧げん壇」の対象であったのかどうか、それまた不明としか言えないのです。

  ■詩篇〔あゝ今日ここに果てんとや〕先駆形

 あゝ今日ここに果てんとや
  燃ゆるねがひはありながら
  はた色声にまぎらひて
  十年むなしく過ぎにけり

 あゝちゝはゝはわれに老い
  ひとびとわれをたすけしに
  まことのみちを行くなくて
  なにをおもひてわれや来し

 懺悔の汗に身をば燃し
  自責の血をば吐きながら
  たゞねがふらく蝕みし
  この身捧げん壇あれと

 さてはふたゝび生れんに
  かゝるねがひを忘るなく
  こたびの恩をひとびとに
  むくひ得んほど強かれと




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