盛岡タイムス Web News 2012年 11月 7日 (水)

       

■  〈日々つれづれ〉146 三浦勲夫 言語野

 言語野(言語中枢)は大脳の左半球にある場合が多いが、右半球にある場合もある。一般に「言語野は左脳」というのは必ずしも正しくない。同様に「音声・美術・芸術中枢」は右半球にあるといわれてきたが正しくは、右半球にあることが多いが左の場合もある。

  小生は一般に言い習わされてきた俗説を信じて、言語は左脳、芸術は右脳と思っていた。信じればマインド・コントロールあるいは自己催眠となり、本人にとっては真実となる。ならざるを得ない。イワシの頭が何に効くのか分からないが「イワシの頭も信心から」だ。

  小生にとって単純で疲れる仕事は英作文の添削である。30年以上も続けてきた。「習い性となる」から最初のころに比べれば、かなり慣れてきた。とはいえ「しんどい感」は免れない。そこで最近試しに音楽を聴きながら作業した。具体的に言うと、軽くて、しゃれて、なめらかな曲、あるいはBGM、すなわち、マントヴァーニ交響楽団やNHK交響楽団による「世界の名曲」などである。

  その昔、好きでよく聴き、その後、遠ざかり、久しぶりに聞いた。昔通りの懐かしさ、快適さがよみがえった。イージー・リスニングといわれたりする「癒やし系」である。聞きながら作業すると頭が癒やされ、疲労感なく、「しんどい」仕事の「しんどさ」がほとんど影を消した。かといって慣れた曲だから、曲に心を奪われて、英語添削ができなくなることもない。作業の主体である「英語添削」は苦痛なく終わった。

  理由はどういうことなのか? 小生の場合、言語も芸術も同じ脳半球にあって作業の邪魔をすることがないのか。それとも言語と芸術の脳半球が左右に分かれていて、程よくバランスが取れるから脳が疲れないのか? 小生は通説を信じていたから、後者に違いないと信じて疑わなかった。それともまた別の考え方があるのか。

  言語野(左脳)と芸術野(右脳)の位置についての通説は間違いだと知った。そこで素人の臆測を推し進めてみた。言語行為は記憶であり、同時に創造である。芸術も記憶と創造から成り立つ。ただし記憶の仕方、創造の仕方は両者で違うだろう。芸術は「きれい」「すごい」と感じたイメージを言語以外の媒体で作品化する。「きれい」「すごい」という言葉は心の躍動感ではなく、その「ラベル」である。言葉とイメージを結びつけるのが芸術であり、言語もその点で芸術に関わる。音楽を聴き、作者とは似て非なる作業を行うことが、脳の疲れを癒やすのかも知れない。

  音楽の快適な体験、不快な体験が単語と結びついて記憶される。同様に美術の快適な体験、不快な体験が単語と結びついて記憶される。言葉と音楽が結びつき、言葉と色彩が結びつく。「共感覚」として異なる感覚が共鳴する。関連付けをたくさん行えば言語もたくさん理解でき、言語でメッセージを創造することも容易になる。年齢とともに記憶力が弱る。外出前に自分の持ち物を数える。「よし、これで全部。忘れ物はない」。そうして出かけても出勤簿の印鑑を忘れたりする。若くても忘れ物をするが老人よりは少ない。高齢者の脳内には過去からの蓄積がある。積み重ねを続け、読み書き対話を欠かさず、言葉と内容のイメージ化を図ることが肝要なようだ。
(岩手大学名誉教授・元放送大学客員教授)


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