盛岡タイムス Web News 2012年 11月 10日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉288 岡澤敏男 「大宗教」のナゾ

 ■「大宗教」のナゾ

  佐々木喜善が晩年の賢治の病室を訪れたのは昭和7年のことで、4月13日を初めとして4月16日、4月18日、5月22日、5月25日、5月27日の6回に及んでいる。喜善は花巻で開催されるエスペラント講習会の講師として出席するため仙台市成田町から4月12日と5月20日に来花し、その際に4月と5月に計6回賢治と面談したのです。「宮沢君のところへ行って夕方まで話した」(4月16日)、「午前十時頃宮沢君のところへ行く。同君とてもよくなっている。長い時間話し昼食を御馳走になる」(5月22日)、「花巻に着いてから宮沢君に行って話をした。仏教の奥義をきいてくる」(5月25日)、「宮沢さんに行き六時間ばかり居る」(5月27日)と喜善の日記にみられるように長時間の滞在が記録されている。会話の内容は明らかではないが、賢治が5月25日に語った「仏教の奥義」は、黄瀛に語ったという「大宗教」のことだったのか。黄瀛は「私には恐ろしかった」らしいが、『奥州ザシキワラシの話』や民話の集大成『聴耳草子』の著者の喜善は「仏教の奥義」に耳を傾けて傾聴したものだろうが、その奥義の内容を喜善は記録していない。

  賢治は翌年(昭和8年)9月21日に死去し、喜善もそのほぼ一週間後の9月29日に腎臓病によって病没してしまったから、賢治の「大宗教」なる奥義はナゾに包まれたままになっているのです。

  この「大宗教」と直接関わりないが、松岡幹夫氏は著書『日蓮仏教の社会思想的展開』のなかで賢治の宗教意識を「法華教信仰と真宗信仰の相互浸透」論で取り上げ、自覚的な法華教信仰とともに、無自覚的な浄土真宗信仰からの影響について作品を提示しながら詳しく解説している。特に羅須地人協会(農村運動)挫折による晩年は、法華教信仰による「自立主義に偏向した自らの態度を〈慢〉として反省し、それまで以上に他力救済を強く願い始めた」と指摘しています。確かに賢治が死期迫る10日前に発信した柳原昌悦への書簡に、羅須地人協会の惨めな失敗をば〈慢〉に身を加えたことに原因していると述べているのです。

  また「雨ニモマケズ」の「デクノボー」は『法華教』の不軽菩薩がモデルとみなされているが、賢治は不軽菩薩は一切衆生に仏性の内在を認め四衆礼拝行をするという教義を、文語詩未定稿「不軽菩薩」の最終連では「ここにわれなくかれもなし/ただ一乗の法界ぞ/法界をこそ拝すれと/菩薩は礼をなし給ふ」と結んでいる。すなわち四衆礼拝行の衆生を個としての人間をみるのではなく、個の人間を絶対者の影としてみる立場で賢治は捉えているのです。

  松岡氏は、このような宗教的実践観は真宗の還相廻向思想を想起させると指摘している。「オロオロ」するデクノボーのイメージは、迫害にもひるまない不軽菩薩よりも、干害・冷害に狼狽しナミダを流す真宗的な自己卑下意識を持つ人を感じさせます。このデクノボーこそが晩年にたどり着いた賢治の宗教意識の象徴とみられる。ナゾであった黄瀛に語った「大宗教」にして、喜善が拝聴したという「仏教の奥義」の輪郭を推理すれば、それは「法華教信仰と真宗信仰と両方の倫理的エッセンスを賢治自身の共感的性格を通じて融合させ、そこに幅広い近代的素養も反映させつつ、独創的な共生倫理観を練り上げた」(松岡幹夫)一種のシンクレティズム信仰であろうと察知されます。

  ■文語詩不定稿「不軽菩薩」
  あらめの衣身にまとひ
  城より城をへめぐりつ
  上慢四衆の人ごとに
  菩薩は礼をなしたまふ

  (われは不軽ぞかれは慢
    こは無明なりしかもあれ
    いましも展く法性と
    菩薩は礼をなしたまふ)

 われ汝等を尊敬す
  敢て軽賤なさざるは
  汝等作仏せん故と
  菩薩は礼をなしたまふ

  (ここにわれなくかれもなし
    たゞ一乗の法界ぞ
    法界をこそ拝すれと
    菩薩は礼をなしたまふ)




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