盛岡タイムス Web News 2012年 11月 22日 (木)

       

■  〈岩手からのカナダ移住物語〉30 菊池孝育 吉田愼也6

 「吉田さんは犬や馬が好きで、食事のときに自分の箸から食物を犬に与えるのでミセス吉田からたしなめられることもたびたびであった。また、ときどき家の回りの野菜園を馬を使って耕すことがあったが、吉田さんが使うと道草ばかり食べて中々動かない。吉田さんの農業一切を切り回していた小野寺緑さんが同じ馬を使うと、まるで違った馬のように動くので、馬も人の性格を見抜くものだと思った」。

  動物好きの愼也の人柄がよく描かれている。馬も愼也に甘えて働こうとしなかったようだ。身近な人たちにも優しかった。郷里から呼び寄せた人たちの面倒をよく見た。仕事はもちろんのこと、結婚から将来の生活までとことん面倒を見ている。愼也の晩年の書簡を読むと、縁者の身の上を気遣う彼の息づきが伝わってくる。

  「ミセス吉田は気品の高いなかなかの美人で、例にしてはもったいないが、昭憲皇太后のような人で、吉田さんに嫁入って来られるのに、仙台から二人の女中さんを連れて来られた。数年後一人の女中さんは、カナダで結婚させて、吉田さん夫婦に子供がなかったので女中さんの娘を養女にされて、BC大学を卒業させ日本で結婚した」。

  愼也の妻サラは胆沢郡人首村(現奥州市江刺区人首)の佐賀家の出身で、生家は呉服屋であった。「仙台から二人の女中さん…」は平山一郎の思い違いであろう。確かに佐賀家親戚の娘を一人女中として連れて行ったが、もう一人は戦後東京の自宅で使っていた女中をカナダの日系二世に嫁がせたことから、「二人の女中さん」になったものと思われる。最初の親戚の娘はスティブストンで泉直次郎と結婚した。その娘、泉清子が吉田夫妻の養子となったのも事実である。清子は後にBC大学で知り合った日系二世松崎進と結婚した。松崎は東京裁判のとき、連合国側通訳官であった。「昭憲皇太后」は明治天皇の后である。

  「第二次大戦とともに子供さんや親族の強い招きで、ウイニペグの移民館から交換船で日本へ帰られたが、当市(ウイニペグ)に滞在中毎夕移民館を訪ねた私に、日本へ引き揚げることが辛いらしく後髪を引かれる思いだと話された」。

  第二次大戦勃発後の昭和17(1942)年2月7日、カナダ政府の「戦時特別措置法」の発動により、BC州沿岸の全日系人はカナダ市民としての権利を一切剥奪され、沿岸から百マイル以遠に強制移動させられた。スティブストンの日系人は土地、家屋家財、漁船漁具等の全財産を没収された上、強制収容された。ただし強制移動に際して、居留地までの移動経費と生活費を自弁できる者は、居留地と移動手段を選択できた。日系人はこれを自主移動と称した。愼也は自主移動を選択して、親しい数家族とともに、指定された内陸部の居留地クリスティナ・レイクに落ち着いた。

  収容施設は急造バラックであった。屋根や壁の隙間を通して月や星を眺めることができた。施設の周囲は有刺鉄線で囲われ、銃剣をもった警官によって24時間監視された。


本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします