盛岡タイムス Web News 2012年 11月 24日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉290 岡澤敏男 「また起きて詳しく書きます」

 ■「また起きて詳しく書きます」
  宮沢賢治の令弟清六氏は、詩誌『ユリイカ』1970年(昭和45)7月号に「臨終の言葉」と題する随想を載せている。賢治は息をひきとる前夜、父政次郎に「国訳の法華教を千部印刷して友人知己に頒布してほしい」と遺言した逸話はよく知られている。だが父が「その外には何かないのか」と問うと、「いずれはまた起きて詳しく書きます」と答えたことについてはあまり気を止めていなかった。

  しかし清六氏ははっきりと耳に残る兄のこの言葉が気になって、その意味をずっと考え続けていたという。そして「また起きて詳しく書きます」とは、「喀血も治まり病勢も静まったら起き上がって、もっと詳しく遺書などを書きます」という一面的に解釈もできようが、「兄の気質や、あの臨終の情況や、もうこの世での最後と決めて遺言もした、あのときの兄の目の色などから考え合わせると、あの言葉には、もっと深い意味が籠められていたように思われ」たという。清六氏は随想「臨終の言葉」のなかで「また起きて詳しく書きます」と答えた賢治の言葉の意味を、「新信仰」の問題と推察したのかもしれない。

  清六氏は賢治における『法華教』や日蓮受容のありかたに、家庭の真宗信仰が幼少期の賢治の「信仰的な原体験」となり、この原体験のうえに「教養体験」としての法華教信仰があったと理解したものでしょう。小学校と中学校のころ、真宗大谷派の碩学清川満之の高弟であった暁烏敏になついていたことをあげている。例えば「難思の弘誓は、難度の海を度する大船」を暁烏は「永遠の生命を思うということは人世という荒海をわたる大きな舟のようなものですね」とかみ砕いて教えたので、柔らかい賢治の頭に染み込んでいたが、中学校を終えてから法華教に近づき「久遠の生命」や「此の世を浄土たらしめる」という宗教意識になり、死ぬまで法華教をそばに置いて離さなかった。

  しかし昭和3年8月に病臥し、羅須地人協会が挫折して以来高熱で汗まみれの病床で新たなる宗教意識が芽生えてきたのではなかったか。清六氏は『疾中』詩稿のなかの〔疾いま革まり来て〕の詩の次の2連をとりあげ「また起きて」の意味は「また生まれ変わって」のことだったとらえている。

  疾いま革まり来て
  わが額に死の気配あり

 いざさらばわが業のまゝ
  いづくにもふたゝび生れん

 また晩年の賢治が「新信仰」に関心をよせていたことを次の「思索メモ」から推察し、それが「詳しく書きます」の意味と考えたのかも知れません。

  科学に威嚇されたる信仰
  本述作の目安、著書
  一、異空間の実在 天と餓鬼、分子―原子―電子―   真空―異単元―異構成
     幻想及夢と実在
  二、菩薩仏並に諸他八界依正の実在
     内省及実行による証明
  三、心的因果法則の実在
     唯有因縁
  四、新信仰の確立

  ■〔疾いま革まり来て〕(『疾中』詩稿)

 疾いま革まり来て
  わが額に死の気配あり

 いざさらばわが業のまゝ
  いづくにもふたゞび生れん

 たゞひたにうちねがへるは
  すこやけき身をこそ受けて
  もろもろの恩をも報じ
  もろびとの苦をも負い得ん

 さてはまたなやみのなかに
  数しらぬなげきのなかに
  すなほなるこゝろをもちて
  よろこばんその性を得ん

 さらばいざ死よとり行け
  この世にてわが経ざりける
  数々の快楽の列は
  われよりも美しけきひとの
  すこやかにうも得ななん
  そのことぞいとゞたのしき





本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします