盛岡タイムス Web News 2012年 11月 29日 (木)

       

■  〈岩手からのカナダ移住物語〉31 菊池孝育 吉田愼也7

 日系人財産の接収そして強制収容関連の一切を管理統括したのは、BC州保安委員会(BC Security commission)であった。ある日、保安委員が日系人収容所に現れて次のように通告したのである。

  接収した日系人の全財産の売却費は、収容施設の建設費、維持管理費に充てるので、仮に戦争が終わったとしても、接収した財産は返還されない、と。

  体のよい日系財産の略奪であった。さらに愼也には、中立国による居留民交換船で日本に送還される、と告げた。カナダで再起する道は完全に閉ざされたのである。愼也夫妻は絶望した。その時愼也は還暦を迎えていた。

  平山一郎は「子供さんや親族の強い招きで」、愼也は帰国を決意したかのように書いている。当時、個人の意思によって帰国できるような国際状況ではなかったはずである。戦争当事国間の国家の意思が優先された。少なくとも「親族の招き」が介在する余地はなかったものと考えられる。愼也夫妻の交換者名簿登載は、日本政府に強い影響力を持つ友人、知人の働きかけが、あるいはあったのかもしれない。当時外務省では数次にわたって、交換すべき抑留者の名簿を中立国を介して相手国(カナダ、アメリカなど)に提出している。事前の交換名簿の中に吉田愼也、サラの名はない。第二次居留民交換船の就航が決まって、初めて吉田夫妻の名が帰国者名簿に登場する。この経緯を見ると、日本側の要請というよりはカナダ側の意思によって帰国が実現した可能性が高い。

  全財産を失った上に身寄りのない老夫婦に対するカナダ側の人道的措置であったか、あるいは、カナダにとって好ましからざる人物として帰国させたとも考えられる。当時、愼也夫婦の養子清子は夫とともに上海に住んでいた。また愼也は日本海軍上層部に人脈を持っていた上に、日本の軍需産業を代表する三菱重工の郷古潔が友人であった。カナダにとってどこから見ても好ましからざる人物であったに違いない。従って強制帰国(追放)に処せられたとみるべきであろう。

  昭和18(1943)年8月、愼也とサラはクリスティナ・レイクの収容施設にいる仲間に別れを告げ、カスケードから鉄路ウイニペグに向かった。ウイニペグはカナダからの抑留帰国者の集結地であった。帰国手続きのため、一週間ほど移民館に収容された。この間、平山一郎が毎日、失意の愼也夫妻を訪ねて慰さめたといわれる。

  ほどなくウイニペグから列車でニューヨークに向かった。同年9月6日、第二次居留民交換船グリップスホルム号に乗船、帰国の途に就いた。同年10月16日、同船はインド西岸ポルトガル領ゴアのマルマゴン港に入港、待機していた日本側交換船帝亜丸上の日本抑留者と米大陸抑留者と交換した。愼也夫妻は帝亜丸に乗り移って11月14日未明、横浜に入港した。同船に乗船していた南北米大陸の抑留者は「山形前チリ公使以下鉄鎖から解放された同胞…一千二百九十九名」で、そのうちカナダからはわずか61人であった。


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