盛岡タイムス Web News 2012年 12月 1日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉291 岡澤敏男 わたくしとはいったい何だ

 ■わたくしとはいったい何だ
  賢治が臨終に当たって「いずれはまた起きて詳しく書きます」と遺言したことを軽く見過ごすわけにはできない。輪廻転生の信仰を持つ賢治だから「また起きて」とは「また生まれ変わって」の意味だと受け取られる。かつて保阪嘉内に「私は前にさかなだったことがあって食われたに違いありません」(大正7年5月19日)と便りしているのです。賢治が生まれ変わって詳しく書こうとしたのはいったい何だったのか。清六氏が指摘する「残された未完のメモ」にその謎があるのか。なかでも「科学に威嚇された信仰」のタイトルを持つ「思索メモ」が最も注目される。このメモには三段階の迷悟プロセスを経て「新信仰」が確立される事項が描かれているもので、恐らくは病臥中に思索したメモとみられる。この「新信仰」と、昭和4年2月に黄瀛に語ったという「大宗教」とはつながるものなのか。また昭和7年5月25日に佐々木喜善に語ったという「仏教の奥義」との関連も注目されます。

  上田哲氏は「新信仰」と「大宗教」との関係を「法華教を中心にしながら賢治の内奥には、諸宗教を習合した一種のシンクレティズムが形成されていたのではないか」と指摘したうえで、黄瀛に「少し私には恐ろしかった」と印象づけたのは大宗教の内容に「神秘的なシャーマニスティック」なものをもっていたからと推論している。小桜秀謙氏、松岡幹夫氏は晩年の賢治の思想には「法華教と真宗的精神性との結合」による変化があったと認めている。また賢治の父政次郎氏は「はじめ渋柿のようだったが、しまいには熟柿のようになった」と賢治評をしているが、賢治が日蓮教義を信奉し父に激しく改宗を迫り「われのみみちにたゞしきと/ちちのいかりをあざわらひ/ははのなげきをさげすみて」いたときの賢治は渋柿だった。ところが「さこそは得つるやまひゆゑ/こゑはむなしく息あえぎ/あせうちながしのたうてば/すがたばかりを録されし/下品ざんげのさまなせり」(「文語詩稿 一百篇」)と「下品(げほん)懺悔」して反省する賢治は熟柿となったのでしょう。「あゝ勇猛と精進の/ねがひはつねにありしかど」と羅須地人協会を推進した法華教の行者だったが、病気を得て挫折した後には「熱とあえぎに耐えずして/今宵わが身の果てんとか」「たゞ知りたまへちゝはゝに」「そむけるはかくさびしく死する」(「S博士に」『疾中』)と深い絶望感に襲われるのです。「そしてわたくしはまもなく死ぬのだらう/わたくしとはいったい何だ」(〔そしてわたくしはまもなく死ぬのだらう〕『疾中』)と絶望しながら自問自答するのです。「わたくしとはいったい何だ」と問うのは仏道に疑念を持つことであって、賢治は「わたくしとは」の答えとして得たものは「自分は煩悩具足の凡夫以外の何ものでもない」という親鸞的な「悪人の自覚」だったのでしょう。

  童話『よだかの星』の「よだか」や、『銀河鉄道の夜』の「さそり」が、生きるために多くの生命を殺りくしたことを許しがたい罪悪と悔いて、自己犠牲(自己抹殺)を図るモチーフは、賢治が幼少期に刷り込まれた浄土真宗の精神性のあらわれとみられます。不軽菩薩となって農村救済に体当たりした聖道の行(自力の菩薩道)が行き詰まったとき、病床において思索した新信仰は法華教と真宗の習合によるシンクレティズムで、喜善の聞いた「仏教の奥義」だったのではないか。

  ■黄瀛(こうえい)の言葉(抜粋)

 (「南京だより」草野心平編『宮沢賢治』昭9・1) 一九二九年の春、学校の卒業旅行が発表された時、私は随分よろこんだ。(中略)…花巻に於て宮沢君と最初にして最後の会見をしたことは今でも思ひ出すことができる。

  その時既に宮沢君は何度かの病気で、危篤から少しよくなった時だといふことをきゝ乍ら…私はすぐ帰ろうと思ったら、弟さん(?)が出てきて、本人が是非とほせといふからと言ふので宮沢君の病室へはいった。私達は二人の想像してる個々の二人を先づ話したやうだ。五分間すぐ立つのを気にして私が立とうとしたら、彼は何度も引きとめて私達は結局半時間も話したやうだ。それも詩の話よりも宗教の話が多かった。

  私は宮沢君をうす暗い病室ににらめ乍ら、その実はわからない大宗教の話をきいた。とつとつと話す口吻は少し私には恐しかった。

  宮沢君の生理的に不健康な姿に正座して、私はそのあとで何を話したか覚えてゐない。(以下略)



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