盛岡タイムス Web News 2012年 12月 5日 (水)

       

■  〈口ずさむとき〉310 伊藤幸子 南畝先生

 衣食住もち酒醤油炭たき木なに不足なき年の暮かな
                               大田南畝

 災厄と飢饉と政治的迫害に遭ったとき、江戸の文人たちはどのように身を処していったのだろうか。天明3年(1783)8月7日、狂歌師平秩東作(へづつとうさく)は58歳の身を奮い立たせて東北、蝦夷地の旅に出発した。

  「九月一日、沼宮内、二戸、伝法寺(十和田)を経てようやく陸奥湾を望む野辺地に達した。弘前あたりは飢饉が特にひどく、牛馬はもちろん犬も草木の根も皮も、屍(しかばね)を切り取って食する者もいる。ある里などは人みな死に絶え、弔う者がいないため死骸は鳥獣の餌となる」弘前の郡内だけで死者は七、八万人に達するらしい。

  百万もの人口を抱える江戸は米穀の値が高騰し、予想もつかない騒乱になるのではないか。早晩世情不安に煽(あお)られて狂歌文芸どころではなくなるような気がする。

  高任和夫著「嵐の後の破れ傘」に見る世相。江戸中期、田沼意次の時代から寛政の改革へと続く中、平秩東作、大田南畝(なんぽ)、山東京伝の三文人の旺盛な創作活動に刮目した。

  天明4年春、江戸に帰った東作は還暦の祝いもすませた天明6年8月、政変を聞かされる。「徳川家治公がみまかられ、田沼さまが罷免された」というのである。同年9月家斉が14歳で第11代将軍となり、蝦夷地探検は中止される。

  天明8年7月、田沼意次70歳で死去。数々の事業を行った東作もまた寛政元年(1789)3月8日、64歳で没した。

  東作は大田南畝の恩人であった。19歳のとき最初の狂歌集「寝惚(ねぼけ)先生文集」を出せたのは東作に見いだされてのことで、狂歌の世界に踏み入ったのも彼に誘われてのことだった。

  しかし今、松平定信の粛清が進んでいる。御徒(おかち)役人直次郎(南畝)は突然上司によばれた。「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶといふて夜もねられず」の狂歌は「そちの作か」と詰問。松平公の政治姿勢は生真面目なものだけに一部反発をもつ者もいる。

  南畝は以後言論統制の波が静まるまで狂歌や戯作(げさく)をひかえ、本業の徒士(かちざむらい)に徹し53歳で大坂銅座への単身赴任も長崎奉行所詰にも従った。

  私は今回で3度南畝さんを書き、没年を見届けた。75歳で現役のまま逝った人。文も酒も女も愛し、三保崎という恋人も手に入れた。しかし真に魂が救われるのは書いているときだけ。そう「筆魔」にとりつかれてしまったとつぶやく南畝先生をこれからももっともっと読み、知りたいと思っている。
(八幡平市、歌人)



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