盛岡タイムス Web News 2012年 12月 6日 (木)

       

■  〈岩手からのカナダ移住物語〉32 菊池孝育 吉田愼也8

 次は横浜上陸の際の愼也の自筆帰国申告書である。

  「本籍 岩手縣膽澤郡水澤町、姓名 吉田愼也、旅券番號 不詳、下付年月日 不詳、渡航年月日 明治三十三年十一月十日、戦前在留地(洋文字ニテ記入ノコト)197 Moncton, Steveston, BC, Canada、職業 海産業、兵役關係 なし、同伴家族名 サウラ、續柄關係 妻、抑留サレ居タル者ハ抑留地及抑留年月 ブリテスコロンビヤ州/クリスチャナ レーキ/Christina Lake, B.C. 昭和十七年六月十日ヨリ一年二ヶ月、…現在所持金額 米貨 四百八十弗現金…」。

  これを見ると、その時、愼也は旅券を所持していなかったことが分かる。明治33年に交付された日本旅券は既に紛失したか、あるいは米大陸を離れる前に没収されたか、であろう。彼は戦前何度か日本カナダ間を往復している。ほとんどは塩鮭、筋子の輸出業務であった。その際の出入国はカナダ市民として、カナダ政府交付の旅券を使用した。彼はカナダ市民権取得後も日本国籍は放棄しなかった。多くの日系人と同じく二重国籍を享受していたのである。

  彼は昭和初頭から、カナダから日本への海産物の輸出により、巨利を得て、郷里では鮭大臣と呼ばれたこともあった。カナダに送金できない利益で、都内各地に土地家屋を取得した。そこから上がる益金が、養女清子をはじめとする多くの親族子弟の修学費となったとされる。

  帰国後は「東京市大森區久ケ原七六一番地」に落ち着いた。戦前、清子が結婚して上海に赴くまで住んでいた場所だった。太平洋戦争が終わる昭和20年8月まで、朝9時に家を出て、夕方5時には帰宅した。家人は「大崎に通勤していた」と信じていたようだ。日曜日を除き、判で押したような生活だったようだ。行き先は会社だったか、役所だったか定かではない。当時60歳を超えていた愼也に普通の勤め場所があったとは考えられない。考えられることは、永年の米大陸生活で得た知識や経験を生かしたコンサルタント的な業務ではなかったか。あるいは英語力を駆使して、連合国側の無線傍受、海外からのラジオ放送傍受や、英字新聞などの飜訳の仕事ではなかったか。いずれにしても、軍と関係深い情報機関とか、内閣情報局関連業務であった可能性が想像される。大崎(一説には新橋駅前)で何をしていたか、家族にも一切話さなかったといわれる。サラ夫人にも、友人の手伝いに通っている、とだけ話していたようだ。

  昭和20年3月10日の東京大空襲で家屋家財の一切を焼失した。終戦直後、焼け跡に20坪ほどの小宅を再建して夫人と女中の3人暮らしを続けた。その頃、「またクリスティナ・レイキ(レイク)のバラック生活に戻ったな」と言って苦笑していたといわれる。

  昭和43年5月10日、86歳で他界するまでこの家に住んでいた。戦後のインフレ亢進期には、所持していた土地家屋を切り売りして、カナダ風の生活を守ったとされる。
 


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