盛岡タイムス Web News 2012年 12月 8日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉292 岡澤敏男 「雨ニモマケズ手帳」のブラック・ボックス

 ■「雨ニモマケズ手帳」のブラック・ボックス
  晩年の賢治に真宗への回帰傾向が見られたと言っても決して法華教信仰を棄てたわけでなかった。死ぬまで法華信徒として国柱会の本尊に読経唱題を続けていたし、死の間際に国訳法華教を一千部翻刻頒布を遺言したことはあまりにも有名な逸話です。なかでも最後の手帳となった「雨ニモマケズ手帳」には、臨終2年前における法華教信仰について切々たる心情を書き残しているのです。

  「雨ニモマケズ手帳」は、東北採石工場のセールスで石灰岩の見本・パンフレットなどを入れたズックの大トランクを提げて上京した昭和6年9月20日、旅館で倒れて9月28日に帰花、その直後から約一カ月間病床でメモした最後の手記で、過去の回顧・反省・再起後の念願など家人にも秘めて残した一六四頁の貴重な手帳なのです。

  「痛烈な自戒と自省、深刻な苦悶と悔恨、真剣な念願と諦観」(小倉豐文)など、単なる信仰的記録を超えた「人間記録」として注目されています。『宮沢賢治の手帳研究』『「雨ニモマケズ手帳」新考』の著者小倉豐文氏は、この手帳には「非常に力強い筆意で法華信仰に邁進しようとの決意を記したところがあるかと思うと、弱々しい筆意で病苦退散の呪術的方法を記したところがあり」(洋々社『宮沢賢治』第三号・「ド」と「デ」│「雨ニモマケズ」と「雨ニモマケズ手帳」)と述べている。筆意の強弱となったのは、賢治の病状に〈照る日曇る日〉があったことの反映とみるが、五頁・六頁には筆意の強弱とは別に「筆路」の乱れた記帳がみられ、他にも筆跡の乱れた頁が何カ所かにみられ、「恐らくは発熱して病苦甚だしい折の手記であろう」と小倉氏は推察している。

  その手帳の一三一頁・一三二頁の手記を松岡幹夫氏は特別の関心を持って注目されており、手記にはつぎのように記帳されているのです。

  (一三一頁上段)朋らいま羅漢堂にて/朝づとめ了るらしきに/われはしも疾みて得立たね/むなしくも冬に喘げり/かの町の淫れをみなに/事ありと朋ら言へども/なほしかの大悲の瞳/おゝ阿難師をまものませ/(以下一三一頁下段)雪の山また雪の丘/ふるさとは/はるかに/遠く/草くらき/よみぢの/原を/ふみわけん/みちは/知らずも(以上が一三一頁段)(一三二頁)羅漢堂看経を終へ/座禅儀は足の音にまじり/衆僧いま廊を伝へば(約一行分の空白)/あゝ聖衆来ますに/似たり

  なお手帳の原本には一三一頁第一行の「らいま羅」と「づとめ了る」の下あたりにそれぞれ「涅槃堂中」「羅漢堂看経」と微かな黒文鉛筆の文字が見えるという。これは文語詩「涅槃堂」(「文語詩稿 一百篇」)の題の跡と推定される。手帳のこの手記は推敲されて文語詩「涅槃堂」(下書稿二)に改められたものとみられる。また「羅漢堂」とは羅漢像をまつった禅寺寺院の堂であり、「涅槃堂」とは禅寺寺院における病僧の病室だという。賢治は自分の病室を「涅槃堂」と考え、自分を「病僧」に擬えたものと思われる。賢治は盛岡中学5年の頃、報恩寺住職尾崎文英について参禅したことがあり、報恩寺の五百羅漢像も知られているので病床で当時を幻想したのかもしれない。尾崎氏が注目するのは「衆僧いま廊を伝へば/聖衆来ますに/似たり」のなかに記されている「聖衆」の語だったのです。

  ■文語詩「涅槃堂」(「下書稿」二)

  涅槃堂
  よべよりの雪なほやまず
  松が枝も重りにけらし
  棟遠き羅漢堂には
  衆僧いま般若を転ず

 定着を父母に欠き
  養ひを弟になさで
  ひたすらに求める道の
  疾みてなほ現前し来ず
  (第三連省略)
  かの町の淫れをみなと
  事ありと人は言へえども
  なほしかの大悲のひとみ
  おお難陀師をまもりませ

 松の枝あえかに折れて
  どと落ちし雪の音あり
  衆僧のいま看経を終へ
  こなたへととめくるごとし



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