盛岡タイムス Web News 2012年 12月 24日 (月)

       

■  太田小で見つかった郷土教育資料  旧村時代の姿を克明に 70年前の思い再び

     
  太田教育資料和とじの原本  
 
太田教育資料和とじの原本
 

 旧太田村(現盛岡市太田)では教育振興の一環として「岩手郡太田村郷土教育資料」を1940年に作成した。この資料は、盛岡市立太田小学校の倉庫にしまわれ続け、その存在が忘れられようとしていた。校歌の研究をしている佐々木正太郎さんが偶然見つけ、盛岡市中央公民館太田分館(安倍丈之館長)が復刻した。70年前の旧太田村の姿が詳細に記された貴重な資料、本紙では当時を知る人たちや小学校、公民館の取材と合わせて復刻本を4回にわたって紹介する。

  昭和初期は29年の世界恐慌、大都市から始まった金融恐慌が31年には本県に波及、これに加えて33年の三陸大津波、34年の大凶作などが相次ぎ、岩手、東北の農村経済は壊滅的な状況に追い込まれた。こうした中で文部省が農村再建対策として取り組んだのが教育運動だった。

  文部省の意向を受け、県学務部長は37年に郷土教育の通達を県下の学校長に発布した。▽地理的条件▽歴史的条件▽社会経済的条件▽民俗的条件▽政治的条件▽教化関係▽郷土教育実施方法体系―の7項目の調査を全県で実施。これを集約し「岩手郷土教育資料」を、皇紀二千六百年を記念して40年に発行した。

  同様の項目で郷土教育資料が村々でまとめられ、村によって数十ページのものもあれば、数百ページに及ぶ詳細ものもあり多様だった。

  旧太田村では、35年に太田村誌「朝暾に額づく(ちょうとんにぬかづく)」を発行、編さんに関わった太田尋常高等小学校の教員たちが村誌をベースとしてまとめたのが大田村郷土教育資料だった。

  ところが翌年の日米開戦で軍事教育一色になり、学校の倉庫しまわれ長く忘れられていた。

  太田小学校の校歌に作詞作曲者が不詳となっていることに疑問を持ち、佐々木さんが明らかにしようと考え、2007年から同小の倉庫を調査してきた。作詞作曲者を明らかにすることはできなかったが、その過程で見つけたのが教育資料だった。

     
  左から、小向和秀校長、樋下彩夏児童会長、館澤幸司副会長、太田分館の安倍丈之館長  
  左から、小向和秀校長、樋下彩夏児童会長、館澤幸司副会長、太田分館の安倍丈之館長
 


  教育資料は7編7冊の和とじ本。安倍館長は「文部省、県の意向を受け、40年に郷土教育資料が各地で刊行されたが、翌年の日米開戦もあり、多くの資料が活用されることなく今日まできた。火災で学校が焼けたり、校舎を移転する際などに無くなった可能性もあると思う。この資料を目にした時、埋もれさせるのは忍びなく復刻することを決めた」と復刻への思いを語った。

  安倍館長が時間をかけて複写し、読みやすいように直した復刻本は総ページは755ページに及び、太田の歴史を網羅した大辞典になった。太田分館の図書室、県立図書館、原本のある太田小学校に寄贈した。

  太田小学校では4日、郷土資料として活用するよう児童たちに紹介した。

  小向和秀校長は郷土教育資料の復刻について「例えば太田のことを知りたいと思った時、校長室にある資料が活用できることを分かっているということが重要。子どもたちの興味があることは方言だろうし、年中行事もあるし、昔の子どもがどんな遊びをしていたか。現在は無くなってしまったことを知ることができる。もう一つの使い方とすれば老人クラブとの交流で、調べたことを話して、ああ、やったやった、ということになれば、実際にやっていたという証拠にもなる」と話し、児童会長の樋下彩夏さん(6年)と副会長の館澤幸司君(同)に、教育資料を使った調べ方を熱心に教えていた。


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