盛岡タイムス Web News 2013年  1月  10日 (木)

       

■  〈岩手からのカナダ移住物語〉36 菊池孝育 日本人排斥

 明治時代、北アメリカ大陸に渡った日本人は、人種的偏見に基づく差別と迫害にさらされた。カナダに渡った岩手県人も例外ではなかった。筆紙に尽くしがたい痛恨の歴史を経ながら、彼らは黙々と仕事に励み、それぞれの生活を築き上げてきた。

  明治の終わりになると、漁者は自分の漁船とマイ・ホームを持てるようになり、ささやかな幸せをかみしめられる生活になった。農村では、小規模ながら農園を経営する移住者も出て来た。ビクトリアやバンクーバーでは、商店や食堂を自営する日本人も増えてきた。日本人移住者は、諸権利と財産取得の法的手続きを取るため、カナダ市民権を取得しなければならなかった。幾多の障壁を乗り越えて、市民権取得者は年々増加していった。もはや日本人というよりは日系カナダ市民であった。

  しかし、日雇いのような仕事を転々としながら、ある程度の蓄財を成した暁には、さっさと帰国しようとする出稼ぎ移住者も多かった。彼らはやがてカナダ社会の批判の対象となった。稼げるだけ稼ぎ、後は野となれ山となれ、という生活態度が指弾されたのである。日系人も日本人も、勤勉な働き者という評を受ける点では一致していた。

  忍耐と勤勉さをモットーに歯を食いしばって努力を続けた日系移住者の中から、吉田愼也のように抜きんでた成功者も現れるようになり、他人種に日本人の優秀さを印象づけるようになった。それが逆に日本人に対する警戒感を増幅する結果にもなったのである。

  差別や迫害の具体的事例は枚挙にいとまがない。東洋人(当時は支那人と日本人を指した)には家や土地を売らない、貸さない、食堂や映画館などで同席しない、BC大学では法、医学系には日系人を入学させない、二世でも公務に就けない、医師、弁護士を開業できない、選挙権は与えられない等々、差別と迫害は多岐にわたった。

  さらに1907(明治40)年のバンクーバー暴動(支那人街と日本人街襲撃事件)以来、アジア人排斥運動は組織的になった。やがて州レベルの立法化を促し、日本人移住者の制限、上陸禁止運動などにつながった。特に日露戦争以降は、日本政府の拡張政策への警戒感から反日感情と結びつき、現地での日本人排撃運動の火を燃え上がらせたのである。

  1933(昭和8)年、新渡戸稲造博士が出席したバンフ太平洋会議の頃は、反日感情が一段と高まった時期でもあった。特にビクトリアは差別感情が強かった土地柄だけに、新渡戸博士の病気治療に対する現地の協力が万全であったか、疑問が残るところである。このころBC州における新聞報道の反日論調は、あからさまに排日感情をあおり、労働運動の一部と結びつつ過激化することもしばしばであった。

  1941(昭和16)年12月7日(現地)、日本軍が真珠湾内の米軍基地を攻撃し、太平洋戦争が勃発した。直ちにBC州内の日系人に対して、夜間外出禁止令が出され、電話の使用は英語の通話に限られた。 

  不思議なことに、戦争勃発以前の1941年3月から8月にかけて、RCMP(連邦警察)による日本人の強制調査が行われた。既に日本を仮想敵国と規定して事に当たっていたのである。

  調査の結果、その内訳は次の通りである。

  カナダ生まれ6727人/カナダ市民権所有者7011人/日本国籍9758人/アメリカ市民16人/計2万3512人となっている。

  (注)カナダは属地主義を取っているので、カナダ生まれは自動的にカナダ市民となる。

  


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