盛岡タイムス Web News 2013年  1月  12日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉297 岡澤敏男 帰依スル女

 ■「帰依スル女」

  小倉豐文氏は劇「土偶坊」シナリオの第八景の「恋スル女」のモデルを、第十景「帰依スル女」によって高瀬露と想定したものでしょう。高瀬が法華教に帰依したことが昭和4年(日付不明)に、賢治が高瀬露にあてた手紙の下書(「書簡」252a・ちくま文庫版『宮沢賢治全集』9)によってうかがわれる。

  お手紙拝見いたしました。

  法華をご信仰なさうですがいまの時勢ではまことにできがたいことだと存じます。どうかおしまひまで通して進まれるやうお祈りあげます。そのうちに私もすっかり治って物もはきはき言えるやうになりましたらお目にかかります。(以下省略)

  この文面から、たしかに高瀬露が法華教に「帰依スル女」であることが察知されます。そして彼女が賢治に「恋スル女」であったことにも異論がない。

  羅須地人協会が設立された大正15年の終り頃かその翌年の春に、高瀬露は協会員の高橋慶吾に伴われ下根子桜で独居自炊する賢治に紹介されて以来、しばしば訪れるようになった。小学校の先生でクリスチャンの彼女(26歳)は明るく率直な人柄で、洗濯物から買い物を手伝ったりして賢治(31歳)も最初のうちは歓迎したものらしい。彼女は「男ひとりの不自由さを見て訪ねてくるときは花とか卓上用品などをもって来た」(森荘已池著『宮沢賢治の肖像』)という。やがて、賢治を世話するうちに母性本能が次第に慕情へと変質していくのが、高橋慶吾への次のはがきに垣間見せているのです。

  「高橋サン、ゴメンナサイ。先生ノ所カラオソクカヘリマシタ。ソレデ母ニ心配カケルト思ヒマシテ、オ寄リシナイデキマシタ。先生ノ所デタクサン賛美歌ヲ歌ヒマシタ。クリームノ入ッタパントマッ赤ナリンゴモゴチソウニナリマシタ。カヘリハズット送ッテ下サイマシタ。ベートーベンノ曲ヲレコードデ聞カセテ下サルト仰言ッタノガ、モウ暗クナッタノデ早々カヘッテ来マシタ。先生ハ『女一人デ来テハイケマセン』トイワレタノデガッカリシマシタ。私ハイゝオ婆サンナノニ先生ニ信ジテイタゞケナカッタヤウデ一寸マゴツキマシタ。アトハオ伺ヒ出来ナイデセウネ。デハゴキゲンヤウ。六月九日 T子」(昭和2年6月9日)

  賢治も贈り物には本とか花とかを返礼していたが、好意から恋慕へと急展開して賢治が起床しない時間に訪れたり、一日に二、三度もやってきたりするので、さすが賢治も精神的な息苦しさに耐えきれなくなっていったらしい。「本日不在」の張り紙をしたり、押入れに隠れたり、ついには顔に灰を塗って「私はレプラです」と告げたりして来訪を拒否したことはよく知られている。高瀬露はその虚構のイヤガラセを見抜き、むしろますます慕情をつのらせ賢治が花巻の実家で病臥(昭和8年夏)するまで訪れたといわれている。その後も賢治と手紙を往復し意中を伝えていたらしく前述した高瀬露への手紙(下書)がそれを物語っている。ところで、第八景の「恋する女」の下に書かれたト書きの「アラ幻滅」は、「顔に灰を塗ったり」してイヤガラセをする賢治に「幻滅」したのではなく、その虚構を見抜き「アラ、アラ」と軽くいなす女性特有の感動語で、「ホントカシラ」という推測語を伴うものと思われる。小倉氏はこのように「病床で回想して、ユーモラスに」考える賢治に感動しているのです。

  ■「聖女のさましてちかづけるもの」
    「雨ニモマケズ手帳」29n〜31n
  聖女のさまして
        ちか
        づけるもの
  たくらみすべてならずとて
  いまわが像に
        釘うつとも
  乞ひて弟子の礼とれる
  いま名の故に
        足を
         もて
  われに土をば送るとも
  わがとりきしは
   たゞひとずじの
         みち
          なれや


  


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