盛岡タイムス Web News 2013年  1月  17日 (木)

       

■  〈岩手からのカナダ移住物語〉37 菊池孝育 日本人強制収容

 前回でも述べたように、北米大陸に上陸した日本人は、太平洋戦争以前から人種差別に苦しめられてきた。カナダにおける日本人も明治時代初期の移住以来、ヨーロッパ系移民と同等に扱われることはなかった。カナダ市民権を取得した日系人も、市民としての平等な権利を与えられることはほとんどなかったのである。

  1941(昭和16)年12月7日(8日)以降、日本人、日系人は一層悲惨な境遇に追い込まれた。

  開戦の12月7日から8日にかけて、戦時措置法(War Measures Act)が施行され、以後それに基づく一連の政令(Orders of Council)によって、日系人は断崖から放り落とされ、苦難に呻吟することになる。

  まず第一に、全日系人(日本国籍者、米国籍者を含む)は敵性異国人(Enemy Aliens)と規定され、登録が義務付けられた。日系人全体がこの上ない屈辱と感じた。

  次にスティブストン(フレーザー河流域)の日系漁船は、カナダ海軍によって接収された。出漁中の船は無線で帰港を命じられた。接収された漁船は1200隻にも上った。日系漁民が日本海軍に呼応してカナダ侵攻に協力すると見なされたのである。

  スティブストンの田中高雄(大正4年生まれ)は、12月7日、ペンダー・アイランド付近で鰊漁をしていた。カナダ軍艦が近づいてきて、日本の船は港に帰れ、と命令した。サーチライトで照らされ、いつ砲撃されるか怖かったと語る。港には通訳として吉田愼也が待っていてくれた。接収の任に当たった海軍士官は、捕った魚だけ持って帰れ、漁船、漁具は接収する、と告げた。愼也は高価な漁網だけは持ち帰れるように士官と掛け合ってくれた。だが結局は後で没収された。

  当時愼也は漁者団体の顧問の立場であったが、英語の不自由な日系漁民の権益を守るために日夜奔走してくれたと伝えられている。

  越えて1942(昭和17)年1月14日、政令365によって、日系人の18歳から45歳までの男子は沿岸から160`以遠の内陸部に強制移動を命じられ、道路工事や森林伐採の肉体労働に従事させられた。そして2月24日には、全日系人(all persons of Japanese origin)が同じく内陸部の急造バラックに強制収容されることになった。手始めに、沿岸に居住していた日系人(バンクーバー島他の諸島含む)は手荷物2個だけを持って、へースティング・パークに集められ、そこの倉庫および馬小屋に収容された。家屋敷、家具家財は敵性異国人財産管財人(Custodian)に委ねられた。車、カメラ、ラジオなどは没収され、郵便は検閲、夜間は外出禁止となり、銃剣を持つ沿岸警備隊によって24時間監視された。そして3月25日から10月にかけて、2万3千人以上の日系人が徐々に移動させられたのである。男子の移動先はフレーザー渓谷を通ってロッキー山脈に至る道路建設現場であった。過激分子と見なされた者はアングラー捕虜収容所に送られた。婦女子の収容先は、内陸部のゴースト・タウンの急造バラックであった。全日系人は一部を除いて一家離散の憂き目に直面した。

  かつて日系人が苦難と屈辱にまみれながら建設したハイウエーを、今や日本からの観光客が談笑しながら景色を堪能する。隔世の感がある。
 


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