盛岡タイムス Web News 2013年  1月  26日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉299 岡澤敏男 「デクノボー」への道標

 ■〈デクノボー〉への道標
  賢治は昭和6年3月頃から東北採石工場技師として炭酸石灰製品を東北各地の需要先への訪問販売に従事していました。9月19日も重さ40`の大トランクに宣伝見本類を入れて朝6時35分発の汽車で仙台方面に向かい、翌20日の未明4時の汽車に乗り東京へたったのです。「ぐっすり眠っていると、何だか耳が寒いと思って目がさめた。するとあたまも痛いのに気がついた。向うに乗った人が、汽車の窓をあけたまま降りてしまって、風が吹きこんでいたのであった。東京につくと一緒にひどく高熱を出して、駿河台の八幡館という旅館で寝こんでしまった」(森莊已池著『宮沢賢治の肖像』)。

  このような事情が「昭和六年九月廿日/再ビ/東京ニテ/発熱」の背景にあった。賢治は「今回の発熱の状態」から危険を感じて死を覚悟したらしい。父母宛ての遺書と弟妹たち宛ての告別のことばを書いている。病気は肺炎をぶりかえして熱が下がらず、診断した医師のすすめもあって9月28日の朝に帰花し病臥することになった。病状が快方に向った頃、賢治は病床の手元に置かれた手帳に病中の想念を記したのが「雨ニモマケズ手帳」で、10月中旬頃から書き始めたものらしい。その最初の2n目に「昭和六年九月廿日/再ビ/東京ニテ/発熱」と、ページいっぱいに大文字で書かれている。この大文字16字の間の3カ所の空白に小文字でつぎのように追記されているのです。@大都郊外ノ/煙ニマギレント/ネガヒ/Aマタ北上峽野/ノ松林ニ朽チ/埋モレンコトヲオモヒシモ/B父母/共ニ許サズ/廃躯ニ薬ヲ仰ギ/熱悩ニアヘギテ唯/是父母ノ/意僅ニ/充タン/ヲ翼フ」と記している。

  小文字で書かれた@は大正10年の無断上京の時のこと。Aは大正15年に花巻農学校を退職して下根子桜の別宅に独居自炊生活を営んだ時のことを指し、賢治が早くから「出家」の志を抱いていたことを示すものだが「父母共ニ許サズ」、しかもついに病気で倒れ実家に連れ戻され「廃躯ニ薬ヲ仰グ」ことになってしまったその無念さが表明されている。しかしそれでもなおB「熱悩ニアヘギテ唯是父母ノ意僅ニ充タンヲ翼フ」と記したのはどういう意味だったのか。その意味の延長上にあるのが37〜40nのメモ@と、41〜46nのメモAだと思われます。
@◎快楽も/ほしからず/名も/ほしからず/いまは たゞ/下賤の病躯を/法華教に/捧げ奉りて/一塵 をも/点じ/許されては/父母の下僕と/なりて/ その億千の/恩にも酬へ得ん/病苦必死のねがひ/ この外に/なし
A◎疾すでに/治するに近し/警むらくは/再び貴重 の/健康を得ん日/苟も之を/不徳の思想/目前の 快楽/つまらぬ見掛け/先ずーを求めて/以てーせ ん/といふ風の/自欺的なる/行動/に寸毫も/委 するなく/厳に/日課を定め/法を先とし/父母を 次とし/近縁を三とし/農村を/最后の目標として /只猛進せよ/利による友、快楽/を同じくする友 尽く/之を遠離せよ

  @Aには切々とした自己反省と決意表明が吐露されているのを見るが、「父母の下僕となりてその億千の恩にも酬へ得ん」といい、倫理上の行動目標に「法を先とし父母を次とし近縁を三とし農村を最后」と設定するなど、「只之父母ノ意僅ニ充タンヲ翼フ」という父母への下降的倫理回帰が表明されているのです。

  ■父母宛ての遺書および弟妹宛ての告別の書

 この一生の間どこのどんな子供も受けないやうな厚いご恩をいたゞきながら、いつも我慢でお心に背きたうとうこんなことになりました。今生で万分の一もつひにお返しできませんでしたご恩はきっと次の生、又つぎの生でご報じいたしたいとそれのみを念願いたします。
  どうかご信仰といふのではなくてもお題目で私をお呼びだしください。そのお題目で絶えずおわびもうしあげお答へいたします。
   九月廿一日
  父上様
  母上様

 たうとう一生何ひとつお役に立たずご心配ご迷惑ばかり掛けてしまひました。
  どうかこの我儘者をお赦しください。
   清六様
   しげ様
   主計様
   くに様


 


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