盛岡タイムス Web News 2013年  2月  2日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉300 岡澤敏男 「デクノボー」の系譜

 ■《デクノボー》の系譜

  「雨ニモマケズ」の《デクノボー》の人物像についての考察には諸説があって興味ぶかいものがあります。そのなかで、吉見正信氏の「デクノボーの背景」(『宮沢賢治の「デクノボー」観』)の所論は、童話で《デクノボー》とは言っていないが「デクノボー的な姿や人間像らしきものは、もうそれ以前から賢治が童話に書いております」と指摘。「どんぐりと山猫」、「虔十公園林」、「セロ弾きのゴーシュ」、「気のいい火山弾」の4作品を取り上げ論考しているが、例証が丁寧で説明が易しく説得力があります。優劣を競い合うドングリたちに一郎が「いちばんばかで、めちやくめちやで、まるでなつてゐないやうなのが、いちばんゐらい」との示唆は、ケンクワヤ/ソショウガ/アレバ」を「ツマラナイカラ/ヤメロトイイ」と重複し、虔十、ゴーシュ、ベゴ石が精神薄弱、不器用さ、外見の悪さからばかにされ蔑視されても、「あるがままで肯定される」ところに賢治の倫理観があるようです。それが《デクノボー》を展望するキーワードとなっているのでしょう。

  また山内修氏の「デクノボーの系譜」(『宮沢賢治研究ノート』)の論考は「いわれなく人から指弾され馬鹿にされ、それをいつも苦にしているといったふうな主人公の登場する」一連の童話に注目し、その童話の主人公たちのありように独自の倫理的考察を加えて《デクノボー》の意味を解析しているのです。
  まず「山男の四月」の山男をとりあげる。この山男は山男であるというだけで村人たちから忌避される。

  しかし山男に生まれたのは彼の責任ではないのだが、この山男を「不可避的に負わされた生の不幸を、不幸として描く原点的作品」としてみて、同類のモチーフをもつ他の作品では「その原点から二方向に分化していく志向」をもつことを指摘する。その志向の方向は「不幸な状況に対する倫理の色あいの違い」と認め、それを比喩的に「倫理の上昇過程と下降過程」と称した。上昇過程とは「不可避的な生のありようを悪と断じ、そこから超え出ていこうとする志向性をもつもの」で、「猫の事務所」の〈かま猫〉、「よだかの星」の〈よだか〉、「烏の北斗七星」の〈烏の大尉〉、「銀河鉄道の夜」の〈ジョバンニ〉をあげている。また、「下降過程」とは「不可避的な生のありようを、あるがままの姿で肯定しようとする指向性をもつもの」で「祭の晩」の〈山男〉、「気のいい火山弾」の〈べご石〉、「虔十公園林」の〈虔十〉をあげている。

  しかし「虔十」の場合は杉林を育成することだけに集中し、その結果を自身で自覚しないまま死んでしまう。そこで「下降過程」の位相が「存在があるのままに肯定される」評価軸を排除し、賢治は「あゝ、全くだれがかしこくてたれが賢くないかはわかりません。たゞどこまでも十力の作用は不思議です」と十力の作用(仏のもつ十種の知力)という神秘的な力を導入しているのです。
  「そうでもしなければ、あるがままの姿で存在を肯定することができないのだ、ということを逆説的に示しているともいえる」と山内氏は解析し、賢治が不可知的(神秘的)な力を導入してまでも、存在をありがままで肯定しようとしたことを重視しています。存在をありがままの姿で不可知の他力によって救済されるという下降過程の極点に、山内氏が「浄土教的な臭い」をかぎつけていることに注目されます。

  ■童話「虔十公園林」(後段の抜粋)
 
  (前段省略)
「ああさうさう、ありました、ありました。その虔十といふ人は少し足りないと私らは思ってゐたのです。いつでもはあはあ笑ってゐる人でした。毎日丁度この辺に立って私らの遊ぶのを見てゐたのです。この杉もみんなその人が植えたのださうです。あゝ、全くだれがかしこくてたれが賢くないかはわかりません。たゞどこまでも十力の作用は不思議です。こゝはもういつまでも子供たちの美しい公園地です。どうでせう。こゝに虔十公園林と名をつけていつまでもこの通り保存するやうにしては。」
「これは全くのお考へつきです。さうなれば子供らもどんなにしあはせか知れません。」
  さてみんなその通りになりました。
  芝生のまん中、子供らの林の前に
「虔十公園林」と彫った青い橄欖岩の碑が建ちました。
  (以下省略)


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