盛岡タイムス Web News 2013年  2月 23日 (土)

       

■  〈賢治の置土産〉303 岡澤敏男 ブラック・ボックスのユニット?

 ■ブラック・ボックスのユニット?

  前回の列挙された小学校時代の挿話は、賢治の生来からの強い同情心のほのめきを示しているが、それも単なる傍観的な同情心にとどまらず、衝動的な行動に走らせていることは注目すべき性向といってよい。このような「他者に対する衝動は、じつに賢治の一生を通じて彼を支配し、農村への自己投企にみられるように彼の運命を決定したとさえ思われる」(『宮沢賢治―こころの軌跡』)と福島章氏が指摘している。

  また賢治の思惟傾向については、三歳のころから伯母の子守歌で「正信偈」や「白骨の御文章」を暗唱するほどの原体験をもつ真宗門徒の家庭において、「父は若いときから仏典を好み、同士とともに中央から各宗の碩学・名僧と言われた人たちを呼んで仏教講習を開いた。八、九歳の頃から、毎年大沢温泉で開かれた講習会に、父に伴なわれた賢治は幼い割合に熱心に聞き、殊に講師のうち暁烏敏師のそばにいて離れなかった」と真宗信仰の土壌に育つ姿を清六氏が語っている。

  さらに清六氏は、賢治の幼年時代には内村鑑三の二人の高弟が花巻に居られ、その一人は小学校二年生のときに教えられた照井真臣乳(まみじ)で、もう一人は内村鑑三全集に精魂を傾けた斉藤宗次郎だったという。ことに宗次郎は賢治の父とは並々ならぬ昵懇(じっこん)の間柄であったから、賢治も常に同氏を尊敬していたという。また宮沢家のすぐ後には日本救世軍の母とよばれた山室軍平夫人、幾恵子(旧姓佐藤)が居られ、この人は照井真臣乳と小学校で首席を争ったほどの秀才で、後には吉原の多くの娟妓を救出したりもした女丈夫であったので、祖父や父が「佐藤庄五郎さんと長女のおきえ(幾恵)さんの精神はじつに見上げたものだ」と口癖に言っていたから、賢治がキリスト教思想へ接近する動機につながったとも述べています。

  このように多彩な幼年伝説の挿話から賢治の精神風土に浮上するのは、他者に対する傍観できない衝動的な同情心や献身的自己抹殺の宗教的な傾向が読み取られ、しかも恥ずかしそうに恐縮して食事をとる癖や、「私は馬鹿です、だからいつでも自分のしてゐることが正しく真実だと思ってゐます」(「復活の前」『アザリア』第五号)という肯定的自己卑下意識には真宗信仰の片りんをのぞかせているのです。こうした幼時挿話の数々が賢治の「深層に形成された信教のブラック・ボックスのユニット」となっていったのかもしれない。鶴見俊輔が河合隼雄と賢治のブラック・ボックスについて対談しているなかで、俊輔が国柱会(田中智学)や日蓮宗との関係について次のように示唆に富んだ指摘をしています。

  「賢治が入っていた国柱会というものが、日本の国粋主義、軍国主義の元凶なんですよ。それが運動を起こしているんです。賢治はそこに入ってものすごく頑張るんですが、そこから出てくる。それで結局、つくり出したものは違うんですね。ブラックボックス、宮沢賢治自身がブラックボックスだった。彼が問題を別の仕方で把握して、自分の問題と格闘しているところに日蓮宗が入ってくるから、日蓮宗のとらえ方が違ってくる。日蓮宗から離れたんじゃないけれど、問題のとらえ方が違う。自分のなかに問題がなくて日蓮宗に入っちゃうと、真っ直ぐに固定的になってしまう」 (「特集‖宮沢賢治」1980年10月、『仏教』13号)

  ■宮沢賢治「復活の前」
      (『アザリア』第五号より抜粋)
 
春が来ます。私の気の毒なかなしいねがひが又もやおこることでせう。あゝちゝはゝよ、いちばんの幸福は私であります
総てはわれに在るごとくに展開して来る。見事にも見事にも展開して来る。土性調査、兵役、炭焼、しろい空等
われは古着屋のむすこなるが故にこのよろこびを得たり
  (中略)
私はさびしい、父はなきながらしかる、母はあかぎれして私の幸福を思ふ。私はいくぢなしの泣いてばかりゐる、あゝまっしろの空よ、私はあゝさびしい
  (中略)
私は馬鹿です、だからいつでも自分のしてゐるのが一番正しく真実だと思ってゐます。真理だなんとよそよそしくも考えたものです

なみだなくして人を責めるのはもとめるのです。




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