盛岡タイムス Web News 2013年  2月 28日 (木)

       

■  〈岩手からのカナダ移住物語〉43 菊池孝育 内田盛と鈴木三男

 再び岩手からの移住者の話に戻る。

  明治36年末、水沢からバンクーバーに内田盛と鈴木三男の2人がやってきた。下飯坂武次郎(既述)の呼び掛けに応じたものだった。武次郎はバンクーバー、マリン・ドライブ1771に住んでいた。2人に先立って、吉田愼也がサンフランシスコから北上して到着していたが、英語ができる愼也は間もなくスティブストンで自立した。4人とも、水沢留守家家臣の末裔に当たる。

  内田盛は「弐番座御召出」であった内田松之輔の次男である。内田家を継いだのは兄紹衛である。生家は「武家屋敷」として水沢吉小路に現存する。

  盛は数年間、武次郎のもとで、森林伐採請負業を見習いながら、英語習得に精を出すことになる。英語ができる武次郎は、パルプ会社の依頼により、森林伐採業務を請け負っていた。雪解けを待って、北上し、現地にキャンプを設け、数十人の伐採夫を使役する大仕事であった。降雪の11月にはバンクーバーに戻った。人夫の大半はフレーザー川河口で漁業に従事した。盛も冬季間は愼也と一緒に漁業関係の仕事に就いた。そして愼也と共にバンクーバー水沢立生会の役員に名を連ねたのである。

  サンフランシスコ仕込みの英語を駆使する愼也は明治37年頃から、スティブストンの漁者間で頭角を現し、あれよあれよという間に指導者の一人にのし上がる。当時スティブストンには3、4千人の日系人が働いていた。ほとんどが和歌山県人であった。漁業にも和歌山県にも、縁もゆかりもなかった愼也が、ここで役員として重用された事実は、不思議と言えば不思議である。それだけの能力識見があって、人望が豊かであった証拠であろう。

  盛も武次郎、愼也を見習いながらカナダ移住者として徐々に地歩を固め、2人に劣らず信望を集めるようになる。「加奈陀同胞人物観」に次のように記録されている。

  「(内田盛は)着眼常に凡流を抜き先人未踏の事業に手を染めて、能く労働界の先駆者たるを以て自認す。君は岩手県胆沢郡水沢町塩竃に原籍を有し其の大志を起して大陸に渡航するや、忽ち北方開拓に驥足(きそく)を伸ばさんと欲し、即ちプリンスルパート、オーシャンホール(フォールズ)、クインチャーロット(シャーロット)、スキーナ方面に活躍し、常に邦人就働地の開拓に腐心し能く同胞労働者を指導して倦(う)むことを知らず、此間幾多の請負事業に従ひ、現時北方に於ける労働界の重鎮と称せらる。資性卓落(犖)奮闘的意気に富み、危険を懼(おそ)れず。究苦を凌ぎ、栄辱を事とせず、独立独行の勇気感ずるに余りあり.又能く公共事業に奔走す」

  武次郎の森林伐採請負業を継ぎ、事業を一段と広げた。彼は前記人物観にもあるように、親分肌の人物でしかも人望も厚かったようだ。大正六年の日系紙によれば、加奈陀日本人会のオーシャンフォールズ代表特別委員に選出されている。

  大正15年、在バンクーバー帝国領事館は彼について「内田盛、(現住所)オーシャンフォールズ、BC、(職業)ソーミル・ボス、(原籍)岩手県胆沢郡水沢町塩竃」と記録している。当時現地にはカナダ屈指のパルプ会社があった。会社の依頼により、森林伐採、搬出、製材の人夫を供給したり、作業の管理監督をするのがソーミル・ボスであった。英語ができることが必須条件であった。
 


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