盛岡タイムス Web News 2013年  3月 7日 (木)

       

■  〈岩手からのカナダ移住物語〉44 菊池孝育 内田盛と鈴木三男2

 鈴木三男は物事を理詰めで考える学究肌の青年であった。その点、親分肌で豪放磊落(らいらく)な内田盛とは異なる。三男は原野を生活の場とする森林伐採は、肌に合わないと感じたものであろう。愼也と共にスティブストン行きを選んだ。武次郎と盛は北方の森林伐採業に、愼也と三男は漁業関係へと、一時たもとを分かつことになった。

  三男は留守家准御一家衆であった鈴木四郎左衛門の三男であった。カナダに渡った留守家家臣の末裔(まつえい)の中では一番家格が高かった。次は愼也で、武次郎と盛はさらに一段低かった。そのことが右記のようなグループ分けになったものであろうか。

  「鈴木三男君」というカナダの記録がある。

  「岩手県胆沢郡水沢町の生れにして明治三十七年四月晩市に上陸す。始め漁業に従事し、日本人美以教会に止宿して夜学校に学びたるが、加奈太新報の招きに応じ、同社の事務員たるに及びて大いに手腕を認めらる」

  スティブストンで当初、愼也が三男の英語の手ほどきをした。そもそも愼也は、早くから日本人移住者の英語力不足を痛感して、漁者団体事務所二階で英語夜学校を開き、自ら教師となっていたのである。

  間もなく三男は長嶺ゲンのいるバンクーバー日本人美以教会の夜学校で学び始め、同教会に寄宿した。愼也は、三男には漁労よりもデスクワークが向いていると感じた。そこで彼は三男本人のためには、美以教会の鏑木五郎牧師と長嶺ゲンに託して、三男の知的能力を伸ばした方がよいと考えたのである

  真面目な努力家であった三男は、鏑木牧師の認めるところとなり、鏑木が経営するキリスト教系邦字紙「加奈太新報」の事務員となった。ここで持てる能力を発揮して、経営主任を経て編集責任者となり、加奈太新報の実質的経営者となった。このころは三男も受洗して美以教会員になっていた。明治の進取気鋭の若者は、外国語と欧米の先進文化を学ぶためにキリスト教会に出入りした。そして結果的に信者になった。三男もその一人と言えよう。

  明治39年に仏教会系邦字紙「大陸日報」が創刊され、加奈太新報との間で熾烈な競争が繰りひろげられることになった。大陸日報の主筆が後に岩手日報主筆、専務取締役を務めた禿氏岳山(とくしがくざん、カナダ時代は霊鞍姓)であった。ライバル関係ながら三男とは意気投合して、記者クラブでは親密だったとされる。両紙の競争関係はその後も続き、大正8年、加奈太新報は経営者交代に追い込まれ、三男は退社を余儀なくされた。

  「鈴木三男君」の続きである。

  「其後同社を退き、再び漁業に従事する傍ら、魚類の売買を試み、尚魚類小売店を開きたれども、幾許もなく之を中止し、ステブストン地方に於て専心漁業界に活動しつつありしが、不幸にして病魔の襲ふ所となり、療養のため遂に帰国せり。希くば快癒帰晩の後、更に大に活躍を新にするの期(、)速かならんことを」

  再度スティブストンで漁業関係に携わったのは愼也の計らいであった。しょせん武士の商法の域を出ず、失敗に終わった。

  三男は頭の回転が速く、東北出身者には珍しく弁が立った。盛は豪放磊落なボスであった。愼也は剛胆さと気配りのできる緻密さを併せ持っていた。


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