盛岡タイムス Web News 2013年  3月 9日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉305 岡澤敏男 歎異抄を以て全信仰

 ■歎異鈔を以て全信仰

  1912年(明治45・大正元)、盛岡中学4年生の賢治(16歳)は石巻・松島・仙台・平泉方面への修学旅行(5月27日〜29日)に参加した。このとき初めて海を臨んだものらしく、つぎの歌がある。

  まぼろしとうつつとわかずなみがしら
  きほひ寄せ来るわだつみを見き

  賢治は松島・塩釜のあと、教師の許可を得てひとり塩釜駅東南7`の菖蒲田に病気療養中の伯母平賀ヤギを大東館に訪れ一泊する。ヤギは3歳の賢治をかわいがり寝かせつけながら子守歌のように「正信偈」や「白骨の御文章」を聞かせた伯母であった。賢治は帰校後伯母の容体、消息を父政次郎に書簡(30日)をもって報告をするが、その中に次の一節がみられる。

  「塩釜にて無理に先生の許可を得その夜八時半までに仙台に行く事を約して只一人黄き道を急ぎ申し候 曇れる空、夕暮、確かなる宛も無き一漁村に至る道、小生は淋しさに堪へ兼ね申し候 無意識に小生の口に称名(しょうみょう)の起り申し候」

  寂しさに堪えかね唱えたという称名とはおそらくは《南無阿弥陀仏》という念仏だったと思われます。

  また賢治は、同じ年の11月3日に次のような書簡を父に宛てて発信している。

  「今夜佐々木電眼氏をとひ明日より一円を出して静座法指導の約束を得て帰り申し候 佐々木氏は島津大等(島地の誤り)師あたりとも交際致してずゐぶん確実なる人物にて候。静座と称するものの極妙は仏教の最後の目的と一致するものなりと説かれ小生も聞き齧り読みかじりの仏教を以て大いに横やりを入り候へどもいかにも真理なるやう存じ申し候。(御笑ひ下さるな)…小生の筋骨もし鉄よりも堅く疾病もなく煩悶もなく候はば下手くさく体操などするよりよっぽど親孝行と存じ申し候…又そろそろ父上には小生の主義などの危き方に行かぬやう危険思想などはいだかぬやうと御心配のことと存じ申し候   御心配御无用に候 小生はすでに道を得候。歎異鈔の第一頁を以て小生の全信仰と致し候 もし尽くを小生のものとなし得ずとするも八分迄は会得申し候 念仏も唱へ居り候 仏の御前には命をも落すべき準備充分に候 幽霊も恐ろしく之れ无く候 何となれば念仏者には仏様といふ味方が影の如くに添ひてこれを御護り下さるものと承り候へば…」

  このように16歳(盛岡中学4年生)の賢治の信仰は真宗門徒としてゆるぎなかった。ただ佐々木電眼の人物の信用に引き合いにした島地大等は、明治44年8月4日(賢治中学三年)に大沢温泉で開催された花巻仏教会第十三回夏期講習会(父政次郎が中心的)の講師として招かれているから、賢治は大等と初めての面識を得たとみられる。島地大等は盛岡の浄土真宗寺院願教寺の住職だったが天台教学の権威で曹洞、浄土、日蓮、天台の各大学で講師を務める学者でもあった。賢治は、この翌年(明治44年)の8月にも願教寺の晨朝夏期講習会に参加し大等の法話を聴講したという。父への書簡(11月3日)に「歎異鈔の第一頁を以て小生の全信仰と致し候」とあったのは、この日の演目に親鸞の歎異鈔の講述があったせいだったのでしょう。なお島地大等編『漢和対照 妙法蓮華経』を手にして他力門の真宗とは異なる自力門の法華教に開眼するのは賢治が盛岡高等農林に入学してからのことでした。

  ■父政次郎への賢治の書簡(抜粋)
   (明治四十五年十一月三日発信)

「(前略)近頃はずゐぶん生意気になれりと仰せられ候はん。又多分は小生の今年の三月頃より文学的なる書を求め可成大きな顔をして歌など作るを御とがめの事と存じ申し候。又そろそろ父上には小生の主義などの危き方に行かぬやう危険思想などいだかぬやうと御心配のことと存じ申し候
御心配御无用に候 小生はすでに道を得候。歎異鈔の第一頁を以て小生の全信仰と致し候

  もし尽くを小生のもととなし得ずとするも八分迄は会得申し候 念仏も唱へ居り候。仏の御前には命をも落すべき準備充分に候 幽霊も恐ろしく之れ无く候 何となれば念仏者には仏様といふ味方が影の如く添ひてこれを御護り下さるものと承り候へば報恩寺の羅漢堂をも回るべし岩手山の頂上に一人夜登ること又何の恐ろしき事かあらんと存じ候 かく申せば又無謀なと御しかりこれ有るべく候 然し私の身体は仏様の与へられ身体に候 同時に君の身体に候 社会の身体にて候 左様に無謀なることは致(六字紙面破れて不明)れば充分御安心下され(以下十数字不明)申さず私は(以下欠)」



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