盛岡タイムス Web News 2013年  3月 16日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉306 岡澤敏男 賢治と「静座法」

 ■賢治と「静座法」

  賢治が佐々木電眼から指導を受けた「静座法」について、上田哲は『宮沢賢治/その理想世界への道程』のなかで「わずか十六歳の少年が、疑似宗教的でシャーマニズム的傾向をもつ静座法などに関心をもち健康法の指導者というより行者的性格をもつ怪しげな施療師のところを進んで訪ね入門するなどということはいくら時代が違うといっても異様な感じがする」と述べている。

  静座法は明治末期から昭和初期にかけて健康法ブームがあって岡田式静坐法、藤田式息心調和法、二木式呼吸法、西式健康法、川合式強健法、高野式抵抗養生法、正食正養法などがあったという。そして、これらのなかに宗教的色彩、修養法的な内容を持ったものもあり、岡田式、藤田式、二木式、西式は白隠禅師の説話などをPRし座禅からのヒントを得たと印象づけたという。賢治が入門したのは岡田式静坐法ではなかったかと上田氏は推測したが、晩年の昭和7年6月1日に森佐一宛の書簡で「曾て教を得たる西式の一部こゝに残存し」と述べていることから西式健康法だったと推察される。賢治は「静座と称するものの極妙は仏教の最後の目的と一致するものなりと説かれ小生も聞き齧り読みかじり仏教を以て大いに横やりを入り候」と宗教的色彩があったことを指摘しています。

  ところが16歳の賢治が父政次郎に「小生はすでに道を得候。歎異鈔の第一頁を以て小生の全信仰と致し候」と、かなり誇らしげに信仰心を披瀝しているが、父はおそらくは筆者のように「真宗門徒としてゆるぎなかった」と評価するほど甘い親ばかではなかったに違いない。賢治が親鸞について、ひいては真宗についてどの程度の宗教的理解があったのかよく見抜いていたと思われる。元より政次郎は浄土真宗について篤信が深く、同士とともに仏教の夏期講習会や婦人の会などを企画実行に及ぶ布教活動にも並々ならぬものがあった。政次郎はなかなかの読書家で、真宗の革新団体の浩々洞の同人たちとも親しくその機関誌『精神界』の読者でもあった。また「暁烏敏宛宮沢政次郎書簡集」によれば、政次郎は明治40年10月29日の暁烏敏宛の手紙に「尚外ニ御迷惑ナガラ金参円也同封ニテ願上候間近刊ノ書ニテ小生ニ読メソーナルモノ御見込ミニテ選択御送リ被下度奉願上候。尤モ郵税モ其内ヨリ御支弁被下度候」との依頼を行った。暁烏はこれに呼応し「午後、本郷に宮沢政次郎依頼の書を求む。『回光録』『沈思録』『エビクテタスの教訓』『親鸞聖人』『英雄崇拝論』『百喩法』、之に弐文三十部加へて送る」と同月31日の暁烏の日記に見られるという。

  このように読書家の政次郎は真宗に精通していたから、16歳の賢治が「歎異鈔の第一頁を以て小生の全信仰」とするなどとは、どうにもならない慢心としか映らなかったに違いない。せめて父の蔵書から『親鸞聖人』『教行信証』『大無量寿経』等を取り出して熟読し、浄土思想の根本を把握して阿弥陀の本願、念仏の本質、自力と他力、自然法爾などを見極めてからにしてほしかったのでしょう。

  そして真宗の最も信心深い人を指す「妙好人」にも目を向けてほしかったのではないか。妙好人たちの多くは高い教育を受けず、知的生活とか学問とは無関係で、日々暮らしに汗して働く平凡な信心深い生活者です。政次郎は家人に浄法寺町の法友(宗教信仰上の親友)の高橋勘太郎こそは妙好人的と呼んでいたというのです。

  ■森佐一(莊已池)への賢治の書簡(下書抜粋)
      (昭和7年6月1日発信)
「お手紙拝誦いたしました。療病に関するいろいろのお心付厚くお礼申しあげます。なかで大分やってゐることもあり心強く思ひました。按腹は三年以来苦しまぎれに続けて居り、水を呑むは曾て教を得たる西式の一部こゝのみ残存し、海藻はつとめて摂って居り、間食もほとんどしません。たゞできないのはよく噛むこと、いくらさう努めても性分でちょっとよくなるともう上のそらで物を食べはじめるのです。それでも動物性のものの粕をたべるとききっと工合がわるいのでそれを噛む時はご飯も噛んでゐるやうな訳です。ご注意もありもっと努力しませう。栄養品といふやうなものみんないけません。十二月から四月までは卵もいけませんでした。牛乳は一口呑んでも一日むっとしてゐます。起きてどんどん歩くやうになればいゝのですが、味噌汁のつくり方はあなたのお考えじつに卓見です。早速うちへお手紙を見せてこれで三度さういふ作り方をして貰ひました。(以下省略)」


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