盛岡タイムス Web News 2013年  3月 21日 (木)

       

■  〈岩手からのカナダ移住物語〉46 菊池孝育 J・テンニング

 ジューサン・テンニング(Jusan Tenning)。カナダ市民権を得た立派な日系カナダ人である。日本名は竹内十次郎という。吉田愼也は時の朝鮮総督斎藤實の内密の依頼により、竹内の晩年の面倒を見た。しかも彼の死後、遺骨を抱いて帰国し、彼の郷里である三重県桑名市萱町の法盛寺に丁重に埋葬した。

  以降、テンニングを実名竹内十次郎で記述することにする。

  竹内十次郎は桑名藩士を父として明治2年に生まれた。三田英学校から海軍主計学校に進み、同校を首席(恩賜)で卒業した。日清戦争では旗艦松島の主計官を務めた。その後、海軍内で順調に昇進して、明治31年7月、造艦造兵監督官としてロンドン駐在を命じられた。その時彼は大主計(海軍主計大尉)であった。ロンドンの日本大使館に勤務して、英国からの軍艦買い付けを担当した。弱冠30歳の主計官(現金前渡官吏兼務)単独で、日本海軍省と連絡をとりながら、巨額の代金支払いの実務を担当した。

  そして明治37年11月17日、公金33万5512円45銭六厘(現在の50億円相当か)を拐帯して、英国人妻サラと共に行方をくらました。出奔したときの階級は海軍主計少監(少佐)であった。

  竹内被告不在のまま、東京軍法会議(軍の裁判)にかけられ、重懲役11年の判決が下され、免官となった。

  竹内が軍艦買い付けに当たって、英国側から受け取ったコミッションは300万円にも上り、その巨額の金円は、ほとんどが東京に環流していたとされる。そして時の海軍首脳部の政治資金になったとうわさされた。竹内はその一部を拐帯して逃亡したわけである。海軍首脳は海軍大臣山本権兵衛、海軍次官斎藤實であり、二人の蜜月関係はその後も続き、山本が総理大臣に就任したとき、斎藤は海軍大臣となった。

  シーメンス事件の検事総長であった平沼騏一郎は、当時現金は山本権兵衛に渡った、と言明している。竹内の逃亡も、海軍首脳部の描いた筋書きの通りではないか、とささやかれたものだった。

  竹内は妻サラと共にカナダに逃亡した。マニトバ州の奥地に土地を手に入れ、農場を経営しながら、26年間の潜伏生活を支えたのである。その間妻サラに先立たれ、カナダ人の後妻を迎え7人の子どもをもうけた。本人もJ・テンニングという名でカナダ市民権を得て、カナダ人になりきっていた。

  昭和5年(1930)、吉田愼也は朝鮮総督であった斎藤實から、マニトバからバンクーバーに出てくる竹内十次郎の面倒を見るように、という旨の書信を受け取った。愼也はもちろん竹内の公金拐帯にまつわる逃亡生活については承知していたものであろう。斎藤實とは親戚であり、斎藤の経済援助でアメリカ大陸に渡ったのである。斎藤の依頼は天の声であったはずである。かつてカナダ日本人会の会長であった阿部松之進(宮城県岩ケ崎出身)は、斎藤實の従兄弟であった。明治37年には阿部と愼也が斎藤實に相談して、バンクーバー水沢立生会を発足させ、斎藤からの資金援助を得たこともあった。その阿部は、斎藤を頼って朝鮮に渡り、釜山で事業を興していた。竹内十次郎がバンクーバーに姿を現すことについては、事前に三者の緊密な連携があったことは想像に難くない。その時竹内は既に61歳を超えていた。愼也は48歳、やっと漁者慈善団体長を引退して実業界に進出し、スティブストンの実力者になっていた。
 


本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします