盛岡タイムス Web News 2013年  3月 30日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉308 岡澤敏男 妙好人の高橋勘太郎

 ■妙好人の高橋勘太郎

  宮沢家で勘太郎がなぜ「妙好人的」と呼ばれたのか。小倉豐文氏(『宮沢賢治声聞縁覚録』)は「森莊已池さんから聞いた話」と断っているが、森さんに心臓病の特効薬の製法を実演して教えてくれた里美淑子という寡婦のマッサージ師に関係する次の逸話が伝えられている。彼女の愛児が成人して母親の言うことをきかなくなって悩み、大沢温泉での仏教講習会で知った暁烏敏に救いをもとめて宮沢政次郎に紹介を頼んだところ、政次郎は暁烏敏ではなく相談を勘太郎に斡旋(あっせん)したのです。淑子夫人の悩みを聞いた勘太郎は、短い仏語を短冊にさらさらと書いて渡したという。それは「我が心さえ己の自由にならぬ。まして子の心をや」という意味だったらしい。彼女はその真意を詳しく説明してもらい、やっと悩みを解決し明るく生きていったという。勘太郎はこのような短冊説法を人生相談の際に用いたといわれる。

  また賢治が大正9年、国柱会信行部に入会しファナティックな法華教信者になったころ、真宗を篤信する政次郎と宗論を激しく交すので親子けんかの口論と曲解した近所の人たちが宮沢家の門前に人垣をつくったといわれる。これに心痛した母イチが、はるばる浄法寺村に勘太郎を訪ね相談したところ、勘太郎は浄土教も法華教も「みんなお釈迦さんの教えで、ちっとも違ったものではない。みんな同じものだ」と諭されイチは安心して帰ったという。

  賢治が大正11年1月、父に改宗を迫ったが入れられず家出、上京し自活をしていたとき、4月に父政次郎が上京して賢治を誘い、伊勢神宮から比叡山伝教大師1100年遠忌、大阪河内磯長村叡福寺(聖徳太子墓所)聖徳太子1300年遠忌の参詣、そして法隆寺から奈良路へと5日間の父子2人の旅行を行ったのは、あるいは勘太郎が勧めたもので、イチに授けたような妙好人的な智恵によるものだったのかもしれない。

  賢治と高橋勘太郎との関係についてはあまり明らかではないが、年譜(校本『宮沢賢治全集』第14巻)によれば、大正3年9月(推定)「当時出版されて政次郎の法友高橋勘太郎から贈られてきた島地大等編『漢和対照 妙法蓮華経』(大正3年8月28日明治書院発行)を読んで異常な感動を受けた」とあり、この本には次のような書き入れがあった。

  いにしへの鷲の御山の法の華
    賎が庭にもいま咲きにけり
     大正三中秋十二日
      陸奥山中 寒石山猿
   金蓮大兄 御もとへ

  「寒石」は勘太郎、「金蓮」は政次郎のそれぞれの雅号で、「中秋」は旧暦の8月、その12日は新暦では10月1日に当たる。従って、この本が政次郎に贈られたのは10月1日以降のこととみられる。やがてこの本が賢治の生涯の信仰を決定させる役割を果たすわけなので、間接的にしろ高橋勘太郎と賢治に機縁がなかったわけではない。小倉氏は、法華と浄土の相違があっても賢治の仏教信仰が政次郎の篤信と深い因縁を持つものであり、勘太郎は政次郎の篤信を啓発した人であるから「勘太郎さんは賢治の声聞あるいは縁覚ではなくて、賢治が勘太郎さんの声聞か縁覚ということになるであろう」と解釈をしています。

  ■高橋勘太郎のプロフィール
   (『校本・宮沢賢治全集』十四巻より抜粋)
  高橋勘太郎は浄法寺村の商人、寒石と号した。少年時代奉公した盛岡の池野家で写経を命じられて開眼し、以後深く仏説を学んだ。一九〇二(明治35)年凶作慰問に出た暁烏敏は、はからずもこの妙好人にあい「彼の寒村に光っておる、この宝玉をえたことは何たる幸か」といい、多田鼎は一九〇七(明治40)年七月二六日花巻に来、二九日はじめて逢ったがその印象を「その少しく面長の薄黒い顔には、不断の努力、忍苦、奮闘の影が、はっきりと描かれてゐた。その眼は光ってゐた。…この一見剛頑(かたくな)な野人に見ゆる氏から、その多年の苦労で鍛へた種々の人生観をきくだけてはなく、真宗の宗義につき、全仏教の教理に渉り、転じて一般の哲学や文芸に及び、カント、ヘーゲル、スペンサー、エマースンの名をさへ、度々氏の口から聴いた時は、たゞ驚異の思にたへなかった」(「花巻―高橋勘太郎」石田興平『危機における宗教的体験』85n)と書いている。(以下略)


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