盛岡タイムス Web News 2013年  4月 3日 (水)

       

■  〈日々つれづれ〉165 三浦勲夫 生きて学ぶ

 人は生きることを一生続け、生きるうちは学び続ける。学ぶ対象の中で人に共通するものは「生きるとは何か」、「どのように生きるか」ということであろう。赤子、幼児、児童、生徒、学生、大人、中年、老年と年を重ねるうちに「生きるとは何か」、「いかに生きるか」の思索も信念も希望も変容する。そして次第に自分の一生をどのように完結するかという問題に突き当たる。

  人は自分の力と、他人の力と、社会の力とで生きる。家で働き、外で働き、福祉の力で生きる。生きると同時に生かされている。非常な苦労や困難の中、ストレスに対処して生きる。もちろん楽しみもある。大きい楽しみの一つに「学ぶ」ことがある。自分の趣味や関心に合い、好きなことを学ぶ。自分で学ぶ。グループで学ぶ。ほとんど無限大の学習対象の中で一つ、あるいはいくつかを選び、学ぶ。

  自分の世界は狭い。しかし狭いようで広い。自分だけで生きるのではなく、他人の世界にも触れて生きるからだ。自分個人の話をすれば、「英語」とか「英文学」の世界を歩んできた。たまたま教える仕事を続けている。学校、講座、学習会などでいろいろな人たちに出会う。生涯学習の場では、社会経験豊かな人たちと接し、英語を教えると同時に、多くのことを学ぶ。その人たちの教養、知識、経験、素養、人生観、社会観と、実に多様な学び合いが展開される。知識、見識、胆識という分け方もある。

  入学試験では「学力」の競争が行われるが、社会では「学力」だけでは務まらない。それは基礎力の一つだが、社会では年季を入れ、根気を入れ、社会的包容力を入れた、総合力が必要になる。生涯学習でそのことが次第に明らかになる。知識量の競争をしたい人は別の場を選べばいい。知識量ではなく知識の応用力を目指す人は、それも得られるし、そのほかに得られるものもある。それは「社会性」や「人間理解」や「協調性」である。

  自然に、素直に、他人の特質に感心し、自分にも取り入れる。同じ人間であり、同じ限りある命を生きる仲間である。「いかに生きるか」は「いかに生を全うするか」と結びつき、その思いが共有される。その点では年長者から学ぶものが多々ある。「あのお年であれだけ頑張っておられる。自分もそれを目指そう」。これだけでも大きな励みとなる。

  4月から大学で学ぶ十代後半の人たちもいる。多くは初めて家族のもとを離れ新たな環境で暮らす。彼らは新入生同士の友達づくりから始まる。先輩に学び、教師に学び、そして家族のありがたさを学び、徐々に社会の恩恵や厳しさを知り始める。学校を卒業して社会生活に入る人たちは「社会学習」と「人生学習」がまさに始まる。

  しかし学ぶということは、主に他人が残した業績や、体系を学ぶことになる。一人だけでは切り開けない領域である。学び合う人同士が袖を触れあう。話を「英語学習」に戻せば、それは語彙(ごい)を増やすこと、発音を直すことだけの学習ではない。言葉を使って共に生きる人間の生き方をも学ぶ。人間に寿命がある限り、「いかに生きるか」は「いかに人生を全うするか」という意識になる。人生を若い時代から老年へとたどるうちに、看護や介護やみとりの経験が学ぶ意識にも影響を与えていく。
(岩手大学名誉教授)


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