盛岡タイムス Web News 2013年  4月 17日 (水)

       

■  〈日々つれづれ〉167 三浦勲夫 季節と時節

 「季節」といえば自然現象を思い、そこに人間活動がからめば「時節」を思う。社会の現象や文化や変動がからめば「時代」を思う。3月から4月にかけての天候は、晴れたり荒れたりを繰り返す。低気圧、高気圧、寒気団、暖気団がぶつかり、押し合って交互に気象を変える。穏やかな春が生まれる前には、去る冬と来る春との荒々しい激突がある。

  時節、時代の交代期にも新旧の勢力や体系が衝突する。最近『ジョン・マン(望郷篇)』(講談社・山本一力)を読んでそのようなことを感じた。土佐の漁師の倅(せがれ)、万次郎(1827│1898)の一生が、徳川幕末期から明治時代への大きなうねりと重なる。時代の激動が人々の背景を揺らし、運命を翻弄(ほんろう)する。万次郎もその一人だった。14歳の少年はカツオ漁に出て太平洋上で嵐に遭遇(1841年)、無人の鳥島にたどり着く。5カ月の漂流生活ののち、付近を通りかかったアメリカの捕鯨船、ジョン・ハウランド号に救われた。

  漁師仲間の4人とホノルルで別れて、万次郎一人が異人である捕鯨船員や一般人たちと10年に及ぶ異文化生活を始める。太平洋や南氷洋でクジラを取り、アメリカ東部、ボストン近くのマサチューセッツ州の港町ニュー・ベッドフォードやフェアヘイブンなどで船長の養子として学校教育を受け、西洋文化を吸収する。ホノルルに残した4人の仲間の帰国の船賃を得るために、クジラ取りのほかにも、ゴールド・ラッシュに沸くカリフォルニア州に渡り、金採掘労働に従事する(1850)。

  10年たち24歳となった若者、万次郎はホノルルから仲間の4人を連れて日本に帰国する(1851年)。捕鯨船員たちからはジョン・ハウランド号の「ジョン」をとって「ジョン・マン」の名で呼ばれる若者になっていた。鎖国時代の日本では外国に行くことも、外国から帰ることも禁じられており、禁に背けば打ち首の刑を科せられた。しかし、幕末の世となれば厳格な尋問を受けはしたが、薩摩藩からも幕府からも重用されることになる。歴史の皮肉な巡り合わせである。

  ペリー提督が黒船を率いて浦賀や江戸湾に来航し、日本に開国を迫った際にも通訳を行うほどの十分な英語力を身に付けていた。薩摩藩の学校「開成所」や幕府が開設した学校「軍艦訓練所」、そして明治政府の「開成学校」(東京大学の前身)では教授として英語、汽船操縦術、造船術を教えた。名字を許され、出身地の名を取り「中濱万次郎」となった。

  歴史小説『ジョン・マン』を3巻読んで彼の生涯の概略をつかんだ。土佐藩は坂本竜馬(1836│1867)の出身地である。竜馬は国内で開国運動に奔走して、命を捧げた。波瀾(はらん)万丈の勤皇・佐幕の戦い、開国・攘夷の戦いが各地で流血を呼んだ。その時世から嵐のために運命的に遠ざかり、無人島、米国、捕鯨船などで10年間過ごさざるを得なかった万次郎。彼の人生に漂流の時期がなかったら、幕末から明治への変革期の重要部分も変わっていただろう。興味深い時代の激流である。冬と春がぶつかる嵐のごとく、鎖国日本の幕藩体制と開国近代化の潮流がぶつかって大きく渦を巻いた。尊い犠牲をおびただしく出しながら、時代は新しいステップへと進行する。日本の戦争も、原子力発電所の今回の大事故もそうであろう。安全神話が打ち砕かれた2年目の春に思う。
   (岩手大学名誉教授)


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