盛岡タイムス Web News 2013年  4月 18日 (木)

       

■  〈岩手からのカナダ移住物語〉50 菊池孝育 千葉伍市と孟2

 オーシャン・フォールズは樺太やカムチャッカ半島と、ほぼ同緯度である。夏は短く冬は長かった。ビクトリアやバンクーバーから見れば、へき地の寒冷の地である。そこで2人は十数年間、重労働に従事する生活を送った。明治の人たちは実に辛抱強かったと思う。

  大正2年、伍市の息子義実と孟の妻ふさがバンクーバーに上陸した。伍市がバンクーバーまで迎えに出た。横浜バンクーバー間は、定期客船で2週間、貨物船だとほぼ1カ月を要した。さらにバンクーバーからオーシャン・フォールズまでは3日の船旅であった。

  後でふさは「地の果てまで来てしまった」と述懐したといわれる。

  2人は2部屋と台所のある丸太小屋を建てて両人を待っていた。伍市と義実が1部屋を使い、台所の隣の部屋は孟夫婦が使った。ふさが食事洗濯などの家事を担当した。男3人の稼ぎはそれまでの倍以上になった。2年後には孟夫妻に待望の長男猛が生まれた。ますますカナダ定住の思いを強くした。

  大正10年、義実は兵役に就くため帰国した。その2、3年後、伍市もまとまった金を持って帰国した。伍市は孟にも一緒に帰国することを勧めたが、孟の夢はカナダの百姓として成功することであった。孟夫婦はオーシャン・フォールズに残って、森林伐採、搬出の重労働を続けた。そのころ孟も少々の農地を買えるぐらいの蓄えもできていた。

  大正15年9月、孟夫婦は3人の子どもと共にバンクーバーに出てきた。バーノンに住む旧知の佐々木辰五郎を頼って、念願の農業に乗り出すためであった。

  孟はもともと大籠の農家であった。農閑期には木樵(きこり)のまね事をした経験があったけれども、中年にもなると、極寒地の森林伐採業務は骨身にこたえる重労働であった。本来の農業に戻るには好機と考えたものであろう。

  バンクーバーの東方約400`の内陸部にオカナガン湖がある。オカナガン地方は北緯50度に位置するが、この広大な湖のおかげで、気候は温暖である。そのため古くから果樹園芸が盛んであった。「カナダのフルーツ・バスケット」と呼ばれるほど、果物で有名な地方である。オカナガン湖は南北に約100`、細長く横たわっている。その南端にペンティクトン、北端にバーノンがある。ほぼ中間にこの地方最大の都市ケローナがある。

  このオカナガン地方には、日露戦争以前からかなりの日本人が入植していた。もともと英国系カナダ人の経営する2、3の大農場があって、その農夫として日本人は雇用されていたのである。

  この地方の地味は肥沃(ひよく)であって、しかも気候が温暖とくれば、地価はバンクーバー近郊の農地と同じくらい高かった。日本人が土地を取得して農業を自営するには、かなりの資金を要した。従って自営できた日本人は相当勤勉であったとみてよい。

  昭和10年の時点で、バーノンで成功した日系人農家は9人であった。千葉孟はそのうちの1人である。

  平成4年ころ、筆者がバーノンの千葉家を訪れたとき、孟は既に亡く、大正4年生まれの長男猛夫妻の時代になっていた。猛は戦中、戦後の苦労を訥々(とつとつ)と語ってくれた。猛は既に97〜98歳になるはずである。彼はやや小太りの温厚な紳士で、果樹園経営者としてバーノンの名士の1人になっていた。


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