盛岡タイムス Web News 2013年  4月 18日 (木)

       

■  〈上海〜NY〜台湾ひと筆書き〉番外編2 沢村澄子 乞食(こつじき)の旅

 台北の港町、基隆の駅前で歩道橋を渡った。階段を上り終えたところで、ギョッ!人が倒れてる!えっ?右手に紙コップを持っている!その右手以外は全くうつ伏せに、顔もぴったりコンクリートの地面にくっつけて、鼻が痛くないんだろうか…。透明ガラスで覆われた歩道橋内は温室のように暖かかったから、もしかしたら岩盤浴のように気持ちいいのかもしれないけれど、それでも一体、何時間あの姿勢でいるのか、人が顔をしかめ、またいで通る。

  前日の淡水には、全身をブロンズ色に塗って銅像のふりで、機械のように動くパフォーマンスをしている青年がいた。多くの人が拍手とともに、バケツに小銭を投げ込んでいた。

  上海でも路上に座る人を何人も見た。印象に残っているのは、顔をすっぽりショールで隠し、横に5歳くらいの男の子を連れた女のことだ。その姿がどうにも腑(ふ)に落ちず、何かギクシャクしたものが引っ掛かって、帰国してからも何度も思い出した。もしかしたら、彼女の初めて座った日、だったのかもしれない、ね。

  ニューヨークでは、もうあちこち至る所で楽器演奏や歌をするものだから、地下鉄車内で大音量、踊りだすチームがあっても、市民は驚かない。「オレは10日前に全てをなくした!」と叫ばれると、黙って1ドル札を差し出していた。

  今でも思う。あの歩道橋で倒れていた人は、いつ立ち上がるのだろうかと。夕方5時の鐘を聞いて「やれやれ、きょうも終業だ」と、埃(ほこり)を払いながら家路に就くのかしら。また、「10日前に全てをなくした!」と叫んでいたあの青年が、あの日から5カ月たったきょうもやはり「10日前に」と叫んでいたらどうしよう。「160日前に全てをなくした!」では語呂が悪いから、連日10日前で、後生10日前? いや、日々人々が1ドルを出し続け、彼がもう無財産の人でなくなっていたら……面白いね。

  道端で何かしらのパフォーマンスをしている人と、そこに座ってものを乞う一般に乞食(こじき)と呼ばれる人を、私は分別していない。さらにいえば、前者と、国立劇場や美術館で何か表現している人をも、分別していない。要は、極論、自分を含めたこの世の人全てを乞食(こじき)だと思っている。何かしらと代替に金を得て、日々自らを養って生きる。それを職業や仕事や労働と呼ぶのなら、路上に座って缶を置くのだって仕事だ。しかし、日本では、浮浪者を見かけても乞食(こじき)を見つけることは難しく、そのまた一方で、生活保護受給者は増え続けているのだと聞く。

  ズバリ「恵んでくれ!」と叫ぶパフォーマンスに人々は打たれた。その決心と行動に1ドルという賛辞を返した。その場に居合わせた私は、つくづく人間は希望が好きなのだと思った。生きようとする前向きさを人は愛するのだと感じた。だから、乞食(こじき)のいない日本が怖い。生きるということそのものが乞食(こつじき)であろうに、その牙が刺さらない土壌なのか、既に牙を失くした私たちなのか、旅はこの先もずっと続くのにと思うと、少し悲しくつらいのである。

  けれど、やっぱり私も希望が好きだから、こんな作文をするんだね。

    ◇   ◇

  この旅行記はこれが最終回です。3カ月間、ありがとうございました。

  今回、生活保護に触れて書いておりますが、個々いろんな事情で受給されている方々を非難したいものではありません。真意を酌んでいただければ幸いです。
(盛岡市、書家・沢村澄子)=おわり=


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