盛岡タイムス Web News 2013年  4月 20日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉311 岡澤敏男 悪人正機説と政次郎

 ■悪人正機説と政次郎

  中学4年(大正元年・16歳)の賢治が真宗信仰の信条を「歎異抄の第一頁(第一条)を以て小生の全信仰と致し候」と書信をもって父政次郎に宣言しました。第一条に着目したのは思春期の賢治としては模範的な選択だったが、父は「まだまだ青臭いぞ」とつぶやいたかも知れない。政次郎ならば間違いなく第三条を選んだものとみられる。すなわち「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」とある「悪人正機的救済」を趣旨とする第三条こそが政次郎の「全信仰」の信条であったと思われる。それは政次郎が暁烏敏に宛てた手紙(栗原敦編「金沢大学暁烏文庫蔵 暁烏敏宛宮沢政次郎書簡集」)によって理解される。それをみると政次郎は自分自身を「妄念ノ結晶ナル罪悪ノ凡夫」、「愚病執着ノ悪凡夫」とか「久遠の迷習により三毒に酔ひ倒れたる今の身」、「仕様のない驕慢な手の付けられぬ泥凡夫」などと、自己卑下と懺悔の情を暁烏敏への手紙に何度も繰り返し発信していることでも明らかです。

  しかし政次郎はこの第三条に次の第十三条をセットして心の支えとしていたものとみられる。長文なのでその冒頭の一部のみを抄出します。

  一。弥陀の本願不思議におはしませばとて悪をおそれざるは、また本願ぼこりとて往生かなふべからずといふこと。この条、本願をうたがふ、善悪の宿業をこゝろえざるなり。よきこゝろのおこるも宿善のもよほすゆへなり、悪事のおもはせらるゝも悪業のはからふゆへなり。故聖人のおほせには卯毛・羊毛のさきにいるちりばかりも、つくるつみの宿業にあらずといふことなしとしるべしとさふらひき。(以下省略)

  このなかで「本願ぼこり」とあるのは「どんな悪い人間でも見捨てずに救ってくれるという弥陀の本願力にあまえ、つけあがること」だという。またこの条の中段には「うみ・かわに、あみをひき、つりをして世をわたるものも、野ややまにしゝをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきなゐをし、田畠をつくりてすぐるひとも」みんな同じ人間であって念仏により弥陀の本願に救われるとあり、質・古着を商う政次郎にとってはこの条項は第三条とともに心を支える信仰の中心だったのでしょう。

  30歳頃の政次郎に次のような挿話がある。2歳年下の弟治三郎が明治36年に早世(27歳)したとき、病弱な自身を顧みて前途に不安を覚え生きる気力を失ったらしい。その時のことを政次郎は暁烏敏に手紙で次のように告白している。「(日露)戦役前後の身体具合では迚も今日頃迄の生存も覚束なく存じ愈々無為ににして此世を辞せんかの間進退窮もする処忽ち一道の御光に接し初めて究意の安慰を得申し候」(明治41年5月2日付書簡)と、弥陀によって救済され篤信を深めるに至った心境を語っている。明治36年には賢治も小学校一年生の頃で、父が「此世を辞せんか」などと考えるほど深刻な心境にあったことなど知らずに、ただ真宗信仰に篤く自己卑下に徹する念仏者の父の下で、ものを食べるにも恥ずかしそうに食べたという強い自己卑下意識がみられ、22歳の賢治が『アザリア』第五号(大正7年2月20日発行)の「復活の前」という断想に「私は馬鹿です、だからいつでも自分のしてゐるのが一番正しく真実だと思ってゐます」と自己卑下を肯定する精神性を受け継いでいるのです。

 ■「歎異抄」第三条

 一。善人なをも往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや。この条、一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆへは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこゝろかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこゝろひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるゝことあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり。よて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おほせさふらひき。



本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします