盛岡タイムス Web News 2013年  4月 21日 (日)

       

■ 〈新・三陸物語〉8 金野静一 高田松原8

     
   
     

 松原は、周辺の町村とともに幾度もの津波に襲われている。三陸地方の「外側地震帯」と、特異なリアス式海岸の存在は、何回もの津波の被害を受けたのである。

  近代以降では明治29年、昭和8年、昭和34年(チリ地震津波)と、このたびの「東日本大震災」のそれが、まれに見る大きな津波としてあげられる。

  明治29年6月15日の津波を体験された方は、今日ではもはや存在されていないであろう。6月15日は、旧暦の端午の節句の日であったが、昭和8年3月3日のひな祭りにも、津波が来襲している。

  筆者はこの津波の折、高田町に在住しており、前夜の地震(午前2時32分)をはじめ、その前後のことをうろ覚えながら記憶している。

  この津波では、3千人近くの死者が出ており、北海道、青森、岩手、宮城の1道3県、67カ町村が被害を受けた。

  高田松原は、明治の津波でも、昭和8年のそれにも健在であった。倒木や塩害などの損害は受けたものの、後背地の田畑や家屋などは無事に守られたのである。

  しかし小学2年生であった筆者らは、思いもかけぬ体験をしたのであった。

  昭和の初頭になると松原は海水浴場として、また景勝地としても知られるようになり、松原内に宿泊施設やお土産物店、種々の売店や停留所、企業の研修施設などが立ち並ぶようになった。

  その中に、いかにも海岸らしさを感じる海水を使用した銭湯、すなわち「塩湯(しおゆ)」が建てられた。皮膚病とか膝、腰などの関節によく効くというので、年間を通して営業していた。

  その塩湯を経営していた福田氏の息子が筆者らと同級であった。正君と言った。
  「おいがどう(お前たち、君たち)、俺ぁ家のシオユさ、入るとき、前に入った人たちのことをよーぐ、見てから入れや…」 と、塩湯入浴の心得を教示するのである。町のカフェや花街で遊んできた若者が、塩湯に入ると大変な勢いで荒れるので、気をつけよ、ということらしい。こんなやり取り≠した福田君は、昭和8年の津波で亡くなった。塩湯や松原の建物もすべて流されてしまった。

  数日後、福田君の葬儀が、高田町光照寺(曹洞宗)で営まれた。その際、筆者は「弔詞をあげる」と、担任の先生から命ぜられた。「一人で弔詞を読ませるのは、低学年では無理だ」と職員室では反対の声もあったという。

  そのためか、前日には校長室で校長先生自ら読み方を教えてくれた。教頭を勤めている筆者の父も校長室にいた。

  当日、子ども用の羽織・袴(はかま)で光照寺に赴き、仏前に立った。本堂には大勢の人が詰め掛けていた。筆者は精いっぱいの声を張り上げ、「正君、君はどうして亡くなったのですか…。君は松原の松の下で、お姉さんと一緒に手を握り合ったまま逝ったのですね…」

  会場は、シーンとなり、やがてけたたましいほどの老婆や女性たちの泣き声で、弔詞が聞こえなくなった…。

  葬儀の後、筆者は涙しながら、松原の見える舘の沖(地名)の方へ行った。その日、空は高く、海は深く青い色、そして松林の緑色はひときわ鮮やかに映えていた。
 


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