盛岡タイムス Web News 2013年  4月 25日 (木)

       

■  〈岩手からのカナダ移住物語〉51 菊池孝育 千葉孟と佐々木辰五郎

 話は、孟が佐々木辰五郎と農業を始めた大正末期に戻る。

  共同経営者の辰五郎は、宮城県登米郡上沼村大字桜場(現登米市中田地区)の出身であった。孟とは近隣地域の出身で、しかも同時期にカナダに渡り、同じ登米コロニーの鮭漁に従事した仲間であった。互いに親近感を持って当然であった。孟が伍市とオーシャン・フォールズに北上した頃、辰五郎も鮭漁に別れを告げ、バーノンに入って、大農場の農夫として働き始めたのであった。

  鮭漁(漁業)は気象条件や、魚群の回遊状況に左右され、当たり外れの大きい賭博的要素を多分に持っていた。不漁続きでも、いつか一網でごっそり稼ぐことも可能であった。当時の漁業には、自ずから酒と賭博にのめり込みやすい気風があったと言えよう。

  孟と辰五郎は、もともと農夫であった。従ってそんな漁場の風潮になじめなかったのかも知れない。結果的に両者は、早々と鮭漁を離れたのであった。そして今や、土地を手に入れ、作物や果樹あるいは家畜を、こつこつ育てあげて収穫(果実)を手にする、辛抱強い典型的農家になったのである。

  再会した二人は、「一千九百二十六(大正15)年に至り、千葉(孟)氏と佐々木(辰五郎)氏は共同出資して一英加当り五十五弗(j)の価格を以て四十三英加の土地を購入し、独立の農業を創始した(日本人農業発展号)」こととなっている。一英加(エーカ)は約4反歩であるから、175町歩余りの農地を手にしたのである。当時の日本の尺度から考えると、広大な農地となるが、カナダでは小規模農園の域を出ない。購入費はしめて「弐千参百六拾五弗」となり、2人が公平に負担した。その他農機具、家具什器など、おおよそ3千j程度の資金を要したことは確かである。カナダにおける日本人の日雇い賃金は2j程度であった。生活費、郷里への送金、そして貯蓄、なりふり構わず働く生活から生み出した資金であったに違いない。

  「主作物はトメトー(トマト)、アニヲン(玉ねぎ)その他各種の野菜物である。一箇年の収入は九千弗から一万弗に上りこれに対して支出は収穫期に於て雇用者の給料約一千五百弗或はそれ以上である。使用馬匹四頭を飼育し、農機具も一切完備している。販売は白人と共同販売組合を組織して生産物は悉くその組合に出荷している。千葉氏の夫人房子(ふさ)さんは大正三(二)年に渡航し家事向一切を引受けて働いている。(前掲同書)」 

  やがて大きな収益を上げる共同経営農場になった。しかし辰五郎は農場の経営権を孟に譲渡して帰国した。日本軍部の大陸侵攻の野望があらわになってくるにつれて、日米間、日加間の亀裂が深まり、カナダでも反日感情と日本人排斥運動が徐々に高まりつつあった。自分たちの将来に危惧を抱く日系人は、三々五々帰国し始めていた時期でもあった。辰五郎も日系人の未来に夢を持てなくなっていた。2人とも既にカナダ市民権を取得していた。市民権がなければ土地を取得できなかったのである。

  しかし孟は、カナダの百姓になる、との初志を貫き、差別や排斥にもめげす頑張り通すのである。


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