盛岡タイムス Web News 2013年  5月 2日 (木)

       

■  〈岩手からのカナダ移住物語〉52 菊池孝育 千葉孟と猛

 孟は辰五郎に大金を払って、二分の一の農場の権利を肩代わりした。その後、帰国する日本人の果樹園などを買い取り、徐々に農場を広げていった。昭和16年12月7日(日本時間8日)を迎えるころまでに、バーノンに残っている日系家族はほんの2、3家族に減っていた。ことに太平洋戦争開戦直前には、日本人排斥を露骨に叫ぶ人たちは、かえって少なくなっていたといわれる。

  「嵐の前の静けさ、だったのでしょうか。それとも日系家族が少なくなって、いじめるのはかわいそう、と思ったのでしょうか。とにかく平穏でした。家を新築したり、農場を広げたりした時期でした。野菜を中心に作れば作るほど売れたのです。近くにケローナという消費都市がありましたからね」

  当時の思い出を語ってくれたのは、孟の長男猛であった。筆者が取材した1992年ころは千葉家も長男猛の時代になっていた。

  太平洋戦争勃発によって、すべての日系人が市民としての諸権利を停止あるいは剥奪(はくだつ)された。バーノンの日系人も例外ではなかったが、強制移動と収容は免れた。

  バーノンでも、日系人の自由な移動は禁止され、自由に行けるのは自分の農場と、出荷のための組合事務所だけであった。農産物の出荷組合は白人と日系人が協同で運営していた。必要な物資は白人組合員から融通してもらい、不自由な思いをしないで済んだ。夜間外出禁止と電話による日本語の禁止は徹底して行われた。バーノンの日系人は、強制収容されなくとも、警官に二十四時間監視され、3カ月に1度登録しなければならなかった。

  「私はカナダ生まれのれっきとしたカナダ人なのに、日系人という理由だけで差別や迫害に苦しんだのは、全く不合理でした。他の町で日系人と知れると、面罵(めんば)されたり、犬をけしかけられたり、石を投げつけられたりしたこともありました。その都度かっかして抵抗したりすると、待ってましたとばかり、仕返しが2倍にも3倍にもなって返ってくるのです。そういう時はじっと我慢して嵐をやり過ごす、子どもの頃から身についた処世法でした。堪え忍ぶことが最善なのです。でも私たちは強制収容されなかっただけ、他の地域の日系人よりは楽な生活が送れました」

  以上、千葉猛の談話である。

  バーノンの千葉家を訪問中、猛の友人大石省己がたまたま訪ねてきた。彼は日系三世に当たる。彼の祖父大石熊吉は宮城県登米郡錦織西部の出身で、明治後期に来加してバンクーバーの製材所で働いていたという。作業中、指を切断、やむなく帰国した。そして昭和3年ころ、息子勤を伴って再渡加、バーノンに入植した。省己はこの地で生まれ、父勤の後を継いで農家となった。主としてトマトを栽培しているという。錦織は宮城県とはいえ、猛の出身地大籠から見れば隣部落である。二人は長年親しく行き来しているとのことであった。

  二人の共通の話題は、近い将来、農業に見切りを付け、息子、娘たちの住む都会に出ることについてである。二人は異口同音に、

  「カナダでも個人経営の農業は、後継者難なのです。そのうちに農地の買い手を見つけて都会に出ます」とのことであった。


本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします