盛岡タイムス Web News 2013年  5月 2日 (木)

       

■  〈春又春の日記〉81 古水一雄 終章・春又春の文学的価値 高邁にして一点の邪気なかりしをしのぶ

 春又春の日記は、明治34年から44年の10年間・67冊にわたって書きつづられたものである。その記述を一冊ずつを3年間・80回にわたって連載してきたが、連載を終わるに当たって、その文学的価値について考察したい。

  その前に、俳誌「層雲」2巻1号(明治45年5月号)に掲載された河東碧梧桐による追悼文「春又春を思ふ」なる一文を紹介することにする。

 (前略)

   紅東(こうとう)といふ俳号は知ったけれども、其顔には何の印象も残らなかった。たゞ寡黙な落着いた、奥行きのある色の白い男が、当時の記憶を強いて呼び起して眼前に彷彿するのみである。翌四十年應募句稿中に「春又春」と名乗る新しい作者を発見した。字が器用な筆つきではあるが、一種の気骨を帯びてをる句は一題僅かに十句内外、多いのも二十句に過ぐるはなく、少ないのは一・二句に止まるものもある。よし一・二句でもチャンと一枚の白紙に清記(せいき)してあって紙を惜しむといふ風な様子が毫(すこ)しも見えて居らぬ。言はゞ謹厳な気に満ちた句稿である。自然句の可否に論なく、悉(ことごと)く苦心の跡が見え、鍛錬の功が積んである。旅中原稿のみを取寄せるので何処の何人なるかを知らずに過ごした。ただ其原稿に接する毎に敬虔(けいけん)の念を以て迎ふるのみであったが、如何なるヒント得たのか盛岡の紅東が改号したのではあるまいか、といふ疑ひを起したことがある。恐らく其草稿中に盛岡の人でなければ言ひ得ぬ叙景又は地名のあった為であらう。

   爾来(じらい)「紅東」―「春又春」を同人として、其技倆(ぎりょう)の進歩に敬服してゐたのであったが、第一次旅程を了った時予の想像の適中したことを知って俳神の夢の告だとも思ふたのであった。「春又春」に対する敬虔の念は一日も緩んだことがない。其終始渝(かわ)らぬ努力を敬稱して東北の第一人と押し立てるのであった。

   四十四年四月、突如として彼の訃に接した。

   真に掌中の珠を奪はれた如く、其死を悼(いた)むよりも其人亡き寂寞の情に堪えなかった。当時は旅行を終って心身共に怱忙(そうぼう)としてをった際であったけれども、我が背後を照らす光明を失した如く、無限の哀愁は我を覆ふのであった。

   ことし四月春又春逝かんとす。庭前の木瓜風に乱れて散るを見ながら、先づ「春又春」と置き得た雅号の妙を思ひ、而して其性格の高邁(こうまい)にして一点の邪気なかりしをしのぶ。君を惜むの情更に切なるものがある。

   (注:ことし四月春又春逝かんとす― 碧梧桐がこの原稿を書いたのは4月中と思われる。春又春のへの思いが強かったあまり、思わず知らず前年の9月を今年の4月と誤記したものであろうか。)


  碧梧桐は、俳句行脚三千里≠フ途中途中で届けられる俳句の中に、謹厳な気に満ちた俳句を見いだした。俳号は「春又春」とある。旅の中なので、どこの誰から送られてきたものかは知ることができなかったが、句中に以前逗留した陸中盛岡にちなんだ語句があったのである。おそらく句会で自身に次ぐ高得点をあげた「紅東」が改号して「春又春」を名乗ったものと見込みを付けていた。三千里≠フ行脚から帰って自分の予想が的中したことを知ることになった。そして「春又春」こそ東北を代表する俳人だと得心することができたのであった。

  春又春他界の報に接したのは、行脚から戻って心身ともに忙殺されている時であったが掌中の玉を失ったように思え、いかんともしがたい喪失感に襲われたのであった。

  それにしても「春又春」という絶妙な俳号を思い、気高く邪念のない性格を偲び、哀惜の情尽きないものがある、と追悼の辞を寄せたのであった。

  碧梧桐については、以前にも2度ばかり触れているが、かなり時間もたっているので改めて触れることにする。

 河東碧梧桐(本名:加藤秉五郎かとうへいごろう)は、愛媛県出身。伊予尋常中学校時代、帰郷した子規に野球を教わったことがきっかけで、同級の高浜虚子(本名:清)を誘い俳句も学ぶようになる。

  子規没後は新聞「日本」俳句欄の選者を引き継いだ。明治38年ころから「新傾向俳句」を提唱して全国俳句行脚を2度にわたって行う。そのときの紀行文が「三千里」「続三千里」である。ただ、旧守派の高浜虚子とは次第に対立を深め、たもとを分かっている。

  いずれ碧梧桐は子規の後継者として子規が進めてきた俳句革新の先陣を切る新派の第一人者であったことは間違いない。先に記載した追悼文は荻原井泉水が主宰する俳誌「層雲」に掲載したものであった。

  追悼文には、投稿してくる句の書きぶりから春又春の謹厳実直な態度を読み取り、十分に推敲(すいこう)された俳句から春又春の才気の豊かさを感じ取って、その突然の死の報に一方ならぬ哀悼の情を示したのである。

  この追悼文に先立つこと4年ほど前の明治40年の暮れには、東京外語学校に在籍した俳句仲間の内田秋皎に碧梧桐が「春又春、天才」と語り、帰盛した際に春又春にそれを伝えている。翌年9月、久保庄の店員で俳人でもある佐藤雲軒が碧梧桐を訪問した際にも同様の話をしていて、これも春又春に伝えられているのである。

  これらのことから碧梧桐がいかに春又春に高い評価を与えていたかが分かるであろう。

  さて、春又春の文学活動を振り返ると二つの会の主宰をあげることができる。

  一つは「杜陵短歌会」である。明治37年暮れ、上京中に伊藤左千夫から根岸短歌会に2度招かれて好成績を上げているのだが、家業の都合で帰盛をやむなくさせられてしまい東京での活動を断念せざるをえなかったのだ。帰盛してすぐに「杜陵短歌会」を興して紅東の雅号で短歌を創り、「馬酔木」へ盛んに投稿している。しかし、盟友であった星山月秋の死によって「杜陵短歌会」は活動を停止している。(ただし、個人的には多々良山人の雅号で作歌活動は続けている。)

  二つ目は「杜陵吟社」の再興である。「杜陵吟社」は明治32年頃、原抱琴の発案により野村長一(後の胡堂)らが所属する盛岡中学校の句会みどり会≠ニ市井の句会で佐藤雲軒らの若声会≠フ合同でできた新派の俳句結社である。盛岡中学校の生徒たちが進学により次々に卒業していったために衰退して活動は休止状態になっていたのであるが、新たに「春又春」と改号したのをきっかけに再興に乗り出したものである。 

  そういう意味からも盛岡中学校の文学隆盛期を過ぎて文学活動の衰退期に孤軍奮闘し、伝統の保持に努めた春又春の活動は改めて評価していいのではないだろうか。

  春又春の文学活動で特筆すべきは子規との関わりである。子規が没したのは明治35年で春又春はそのとき中学2年生であったから直接の交流はなかった。もっぱら著書を通しての、いわば一方的な接触に過ぎなかったのだが、死に直面するまで敬愛の念を抱き、その人格と文学観に傾注したのであった。

  まず日記の形式からして子規の「仰臥漫録」に倣い、3度の食事内容とその日の出来事を書き付けているのである。また、その短歌・俳句は、子規が唱えた万葉的写実(写生)を主軸として営まれているのである。(漢詩や写生文にも創作を拡げてもいる。)

  果たして春又春の創作が師と仰いだ子規の文学観を体現し得たかどうかは、作品の一つ一つに当たってみなければならないだろうが、少なくとも子規が目指した文学論に添って(添おうとして)奮闘したことは間違いない。子規没後の根岸派の面々の変容ぶりをたどるにつけ、春又春のかたくなまでの創作活動をなしえたのは、盛岡という文学風土と、ごく限られた人物との交流といった特異な環境がもたらしたものと筆者は考えている。それ故に人口に膾炙(かいしゃ)することなく長年埋もれてしまう原因となったのであろう。また、数少ない友人の早世という不運も重なっていたことも大きく作用しているのである。

  連載を終わるにあたって、一人でも多く春又春の存在に関心を向け、一人でも多く春又春の作品に親しんでいただくことを願って「春又春の日記」の連載を閉じることにする。

                =完=



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