盛岡タイムス Web News 2013年  5月 8日 (水)

       

■  〈日々つれづれ〉170 三浦勲夫 見る・見ざる

 アケビの小さい花芽がふくらんできたと思ったら小さい花を出した。見えない人もいるが、いち早く気付く人もいる。紫がかった黒い玉だが、大きくなると、くす玉が割れるように四つに割れる。グスベリ(スグリ)の小さい花芽は緑である。やがて赤い実が房となってキラキラと垂れさがる。「小さい秋」ならぬ「小さい夏」発見である。

  気付かない人たちは、教えてもらって気付く。教える人は「盲導犬」のようなものだ。英語では「シーイング・アイ」(見える目)という。全盲あるいは弱視の人たちに代わって、外界を見て危険などを教えてくれる。正常な視力を持っていても、周囲の事物に気付かない人たちには、目のさとい人たちがあれこれと教えてくれる。古くは目が鈍感な人を「お前の目は節穴か」と言ったりした。

  しかし、物が見えすぎて困ることもある。本来、視線は注意の焦点に当てられて、それのみがはっきりと見える。視界のすべてが鮮明に見えるのではない。耳で音を聞く場合でもそうだ。聴力を補うために補聴器を付けて、余分な雑音がはっきりと聞こえてやかましい、ということがある。聞きたくないものは聞きたくない。日常生活では人は選択的に音や声を拾って聞いているようだ。

  一般的な人間社会では、円滑に日常生活を営むためには、見えても見えないふりをし、聞こえても聞こえないふりをし、差しさわりがあることは、いちいち言わないことが多い。「見ざる、聞かざる、言わざる」の方針である。夏目漱石は「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ」と言った(「草枕」)。

  西洋のことわざで「結婚する前は両目で相手をしっかりと見よ。結婚したら片目で見よ」という。欠点だらけの人間が共同で住む最小社会が夫婦である。いちいち相手への不満をならべていたら関係は破綻する。見えても見えないふりをして、当座は言わずにおき、言うときは適当な時期に適当な言葉で言うのが良いのではないか。

  仙台市には日本盲導犬協会の訓練センター(東北唯一)があって、そこで生まれたラブラドル・レトリバーの子犬を一年間、ボランティアで預かって養育した人がいる(パピーウォーカー)。訓練士ではないが、訓練前の基本的なしつけは行う。1カ月に1回、訓練センターに犬と一緒に行き、しつけぶりを報告する。1年経ってセンターに犬を返す頃には、愛着が湧き、別れがつらくなる。そのような話を聞いた。歩き方、食べ方、寝かた、他の犬とはじゃれ合わないなど、人間には絶対服従の精神をまずしつける。

  「シーイング・アイ」として主人(=他人)のために物を注意深く見てあげる生活には極度の緊張が要求される。同様に人間が人間社会の中で、見える物や聞こえる物の一切を相手や周囲に言いたてれば、本人もストレス、相手もストレスに間断なくさらされる。必要最低限の適切な表現で自分の意思を伝える方法を会得しなければならない。盲導犬の場合でも、他の犬が見えても無視し、挑発されても受け流す、そのような自制心を働かす。「見ざる・聞かざる・言わざる」と言っても社会との接触をまったく断つのではなく、見るべき物と見ても見捨てる物を判断し選択することになる。
(岩手大学名誉教授)


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