盛岡タイムス Web News 2013年  5月 11日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉314 岡澤敏男 政次郎と狩野医院

 ■政次郎と狩野病院

  宮沢賢治に関しては万巻の書がある。だが父政次郎については信仰に厚く理財に長けた勤勉な商人で、町会議員や行政各種委員を務めた名士という経歴と、賢治の抑圧者の家長という「負のイメージ」を持たせられ固定されてきた。ところが栗原敦編注による『金沢大学暁烏文庫蔵/暁烏敏宛宮沢政次郎書簡集』71通(明治39年〜昭和3年)に目を通すと、政次郎の、まったく知らない人物像が見えてくるのです。ただ書簡の文面は癖のある難解な文言や、書かれている暁烏の動静が不明なために理解しにくかったが、『暁烏敏日記』『精神界』『汎濫』などから暁烏の参考資料を引用した「補注」によってどうにか書簡を完読できたことは、まったく栗原氏による労苦のおかげです。

  暁烏敏といえば宗門改革の運動者としてきこえている。また社会主義運動にも良き理解者だったから、政次郎などに社会主義の新聞(『平民新聞』か)を贈っていたらしい。政次郎の次の書簡はそれに対する返信とみられます。

  「毎々社会主義の新聞御恵贈に預り難有奉謝上候 私は此種の人類の心に起る不平の声を見る毎に他の事とは存不申誠同情の思ひを禁じ能はぬ次第に御座候」と言い「性根悪き私共は常に極端なる羨望嫉悪等の念に満ても眼を以て社会を見候時社会主義者の筆舌より以上の激烈なる感情を以て相対し不平凝ては何辺なそを訴ふるやも斗られぬ言い知らぬ苦しき感情を起し候ひし事に候(以下略)」(明治40年12月25日付)

  これをみると政次郎が社会主義者に「同情の思い禁じ得ない」と共感していることが注目される。

  政次郎はどのような経緯で暁烏敏と面識を得、師弟の礼をつくして交信するようになったのか。最初の書簡は明治39年に始まっています。「此間ハ参洞種々ノ御高教ヲ蒙リ難有仕合奉深謝候/妄念ノ結晶ナル罪悪ノ凡夫ガ勝手ニ作リシ我侭ノ病気ニ対シ御丁寧ナル御慰問ヲ賜ハリ候事深ク感謝シ奉ルト共ニ慚愧ノ念ニ堪ヘ不申候」(5月21日)とある。「補注」にある『暁烏敏日記』には4月18日「午後、佐々木哲郎、花巻の宮沢政次郎と共に来。今夏花巻の講習会に行く事を約す。夕べになりて去る」とあることから、この書簡の頭書にある謝辞は、暁烏敏に「花巻夏期仏教講習会」(8月1日〜10日)の講師を依頼するため政次郎と佐々木哲郎が浩々洞を訪れた際の謝辞と見受けられる。ところが、不思議なことにこの書簡の発信地が「本郷区弓町一丁目十六番地狩野病院」と記されているのです。ちなみに、5月20日の『暁烏敏日記』をみると、「宮沢の病気を見舞ひて/恵み切に迷ひの夢をさまさんとかけます水と病たふとむ」(5月20日)とあるから暁烏はこの短歌をもって、狩野病院の政次郎を見舞ったものとみられる。政次郎の5月21日書簡に〈御慰問〉とあるのは、この見舞の短歌を指すものなのか。なお書簡の後段に「余リノ妄念ノ甚敷ヲ憫レミ給ヒテハ暫時ナリトモ真面目ノ境ニ居ラシメ給ハル御警策ノ御手モ皆此煩悩強盛ノ者ノ為メト深ク我身ノ罪ノ深キ事ヲ懺謝奉ル」と恐縮する心情がみられる。「煩悩強盛」といい「懺謝(懺悔し謝罪)」と告白するのはどうしてか。妙に気にかかるのです。しかし、あらゆる年譜に目を通してみても、明治39年5月20日に政次郎が東京で発病し狩野病院に入院したとの記録はない。大変ミステリアスな「謎」というべきでしょう。

  ■暁烏敏宛の宮沢政次郎書簡から
        (明治40年12月25日付)
  (前略)昨日の新聞紙に法科大学に工場法制定の事にて法学者と実業家側よりは渋沢男や添田氏の舌戦有之近頃面白き対決と存申候 就中渋沢氏の言う事業道の王道の道を以て望まば富者は富者ながら貧者は貧者ながら共に社会進歩の道に貢献する事を得べし云々とは先ず自己の立脚地として充分立派に言いたる積りならんも如何にせん事業は自己先ず王道を踏み外し常に奇道を以て富を造らんとするの事実あるを思へば世に立ちて言行一致其一言を重からしむるの如何に難きかを想察被致候 所詮人間の足場に立ちて貧富の不平均を救済せん等は架空の論に過ぎ不申存候 仮令今日世界人類の所有を一時に平均するも十日の後一年の後忽ち偉大なる不平等を起して来るは当然に御座候畢竟仏の大慈悲の御心独り此不平等を救済し得て過不及皆 其処を得て其現在を楽しむ境に至る次第に奉存候、



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