盛岡タイムス Web News 2013年  5月 17日 (金)

       

■  〈大連通信〉115 南部駒蔵 大連の地名と歴史

 大連は植民地として誕生、発展した都市であり、その地名の変化には歴史の流れがうかがわれる。今回は、ざっと大連の歴史をまとめ、地名の変遷を紹介しよう。

  大連は唐の時代には「三山浦 サンシャンプウ」と呼ばれていた。自然の風光にちなんだ名前であろう。やがて明、清の時代に入ると「青泥窪 ジンニーワ」と呼ばれた。今でもこの地名は、大連駅近くの地名として残っている。地名の由来は、この周辺が上質の青い泥を産出するので、人々がこぞって土地を掘り起こして家を作った(中国の民家は壁土で作られている)、そのためにくぼみができたことから、そう名付けられたという。青泥窪は当時、貧しい漁村に過ぎなかった。

  1880年、清朝は清国北洋水師(北洋艦隊。1871年に編成された清朝の艦隊)の母港、軍港として、大連湾の北岸に砲台を建設した。旅順を母港としてから2年後のことである。

  1895年、日清戦争で日本は清国に圧倒的な勝利を収め(北洋水師は威海衛攻略のさいに壊滅した)、日清講和条約が締結された。大連、旅順を含む遼東半島が日本に割譲されたが、ロシア、イギリス、フランスの三国の干渉にあって、返還せざるを得なかった。

  ロシアのニコライ2世は、ウラジオストクが冬になると凍って港として使用できないため、これに代わる不凍港を求めていた。そこで旅順を含む遼東半島の南端を租借し、ハルビンから南下して旅順に至るまでの鉄道敷設権を清国(高官であった李鴻章)に認めさせた。ニコライ2世は同時に遼東半島の南端に自由港を建設、日本や朝鮮半島の物資を欧州に、欧州の産品を極東に運びたいと考え、新しい自由港の建設をウイッテ蔵相に命じた。ウイッテはその責任者としてサハロフを選んだ。

  それが後の大連で、1899年ロシアは青泥窪に新都市を建設、都市名も「ダーリニー」と名づけた。ロシア語で「(シベリア鉄道でロシアから)はるか遠い」という意味だという。ダーリニーを建設したのは、旅順にあるロシアの艦隊と要塞の物資を守るため、また貿易の拠点とするためだった。

  サハロフはパリをモデルに都市づくりを計画した。大連には今もなお、ロシア人街があり、旅順駅もロシア風の緑の丸屋根が残り、百年前の面影を伝えている。

  ロシアの南下政策は朝鮮半島に支配権を伸ばしていた日本にとって大きな脅威だった。1904年、日本はロシアに宣戦布告、日露戦争が勃発した。翌1905年、日本占領軍はダーリニーを占拠し、「大連」と名付けた。古地図に「大連湾」とあるので、それを取って都市名とした。それは「ダーリニー」に似通う発音でもあった。

  1906年、台湾統治で実績を上げた後藤新平が大陸の経営を担うべく初代の満鉄総裁となった。後藤はサハロフの都市づくりの後を受けて、大連の都市づくりを完成させた。戦前、後藤の像が星海公園(日本統治時代には「星が浦」と呼ばれていた)にあった。

  1945年8月9日、日ソ不可侵条約を破ってソ連軍が参戦。日本は敗走し、ソ連は大連を占拠、大連港、旅順、南満州鉄道を管理した。

  1951年、中華人民共和国の誕生に伴って大連はソ連から返却された。旅順市を改称し大連と合わせて「旅大市」となったが、1981年には元の「大連市」に戻った。

  1984年、ケ小平の改革・開放政策によって、それまでの鎖国的な政策から、資本主義的な経済政策、海外との貿易、文化交流を進める政策へと転換した。大連も経済特別開発区として着工、以後、現在に至るまで目覚ましい経済発展を遂げている。海外の企業がひしめいているが、中でも日系の企業が一番多いという。
  (岩手医大元教授)


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