盛岡タイムス Web News 2013年  5月 18日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉315 岡澤敏男 政次郎の胃腸

 ■政次郎の胃腸

  32歳の政次郎が東京で発病して本郷区弓町一丁目の狩野病院に入院したことは、5月21日(明治39年)に出した暁烏敏宛書簡の発信が「狩野病院方」とあることから明らかな事実と認められる。この消息について年譜類は沈黙を保っているが、『暁烏敏日記』はその消息を次のように漏らすのです。「午後、佐々木哲郎、宮沢直治(政次郎妻イチの弟)、梅津せつ子(直治、イチの妹)三人来訪」(5月18日)とあり、また5月20日には「宮沢の病気を見舞ひて/恵み切に迷ひの夢をさまさんとかけます水と病たふとむ」と記帳されています。これにより、暁烏が政次郎入院の情報を18日に直治らから耳にしたこと、一日置いた20日に病室を訪れて短歌一首を添え政次郎を見舞ったことがわかる。その間の事情を憶測すれば、「発病し狩野病院に入院」という政次郎の手紙に驚いたイチが、実家の弟直治に相談したとみえる。直治は政次郎の病状を確かめるために佐々木哲郎、梅津せつを同伴して18日に上京し病院を訪れ、その日の午後に暁烏宅を訪れたのでしょう。もちろん直治は政次郎の病状を帰花してイチや政次郎の両親(喜助・キン)に報告したに相違ありません。しかしこれらの消息はなぜ年譜には採録されないのか。その病状をめぐってミステリアスな謎を呼んでしまうのです。

  年譜によれば明治35年9月下旬、赤痢にかかり隔離病舎にあった賢治を看護するうちに政次郎は感染し「激しい大腸カタルをおこし、以後胃腸が悪くなった」らしい。このように胃腸に持病を持つ政次郎のことだから、入院した狩野病院は内科(消化器系)クリニックだった可能性がある。だが前述の暁烏宛書簡にみられる「忘念の結晶なる罪悪の凡夫が勝手に作りし我儘の病気」という表現は、胃腸疾患とは異なる罹病(りびょう)を暗示するような気がする。「勝手ニ作リシ我儘ノ病気」のことを暁烏は短歌で「迷ひの夢」と比喩したのではないだろうか。「迷ひの夢」とは含蓄のある「偈」のようで罹病の本質をぐさっとつき刺したものでしょう。これを政次郎は「暫時ナリトモ真面目ノ境ニ居ラシメ給ハル御警策」と受け止め「煩悩強盛ノ者ノ為メト深ク我身ノ罪ノ深キ事ヲ懺謝」しているのです。「迷ひの夢」と比喩される罹病はいったい何であったのか。

  政次郎の胃腸は入梅頃から夏にかけて異常が起るらしく暁烏敏宛書簡から拾ってみる。「御伺申上候節ハ腹具合面白カラズ諸賢ノ快談ヲ充分ニ伺フ事ヲ得ザリシ」「胃腸ノ診察ハ左程相違モ無之矢張慢性ノ者ハ持久タルベシト存候」(明治41年6月6日)、「私モ御陰ニテ当夏ハ胃腸例年程悩マズ先ヅ平穏ニ暮シ居リ候」(同年8月25日)、「先月の央頃賢治中学を出てから鼻の工合あしき処あり手術の要ありとて十日位の予定にて私付いて参り手術を受け候処二三日経過はさ程の事もなかりしに次第に高熱に上りチプス類似のものと相成り三十余日の入院加養に漸々に生命取留め二三日前漸く帰宅致候/私も介抱中より少々工合悪しく思ひ候内二十日程前より腹部に方三寸程の腫れ物出来身動きも出来ず痛みもありて困り候処漸く痛み丈は取れ腫れ依然有之候へとも少々快く相成り候/今年は何方も病難の多き年柄に思へ候 私近処にても随分病人や死人多く候 先づ命を取止めた方の病人は善き方と思ひ居候」(大正3年5月20日)

  ■暁烏敏宛ての宮沢政次郎書簡集から
      (明治45年5月11日付)

 (前略)何よりも此頃の私は我れながら余りにしぶとく愚痴に候て如何共物之決断に苦しむ事多くかゝる時百雷の頭上に落る如き御手強き御警策にいかで逢はばやと願ふ事もあり其度び必ず決断ある厳しき知識の念頭に浮み申候 何を苦しむと言うても愛欲名利等に他ならぬ事に候間是れに淡くなる工夫何卒御教へ賜はり度候 尤も遠く近く賢聖の遺し置かれし妙薬は何程か服せぬにはなき事かと存候へ共そこがしぶとき頑固の性に候間曾掛りの対症療法御教へ被下度候(以下略)



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