盛岡タイムス Web News 2013年  5月 21日 (火)

       

■  〈盛岡藩ゆかりの戦国武将─秀吉をうならせた宮部継潤〉1 矢萩昭二 九州征伐で大活躍

     
  宮部継潤想像図(宮部史談会提供)  
 
宮部継潤想像図(宮部史談会提供)
 

 盛岡市の北東、姫神山を見上げる北山地区は盛岡城の鬼門とされ、このかいわいには上野寛永寺直末法輪院をはじめ、11カ寺余りの寺院が甍(いらか)を並べ、城府の防波堤の役割を担っていた。

  その中に近江とゆかりのある浄土宗寺院衆寶山光台寺がある。この寺には、蒲生氏郷の娘、ムカデ姫で有名な南部利直の奥方源秀院(於武)も眠る。そして因幡・但馬で八万石を領し、慶長5年(1600)、関が原の戦いで敗れて改易となり南部家にお預けになった鳥取城主宮部長熙の墓もある。

  寛永7年(1630)7月、東照大権現(徳川家康)十三回忌による特赦により、配所の罪は許されたが、4年後の寛永11年(1634)11月、故郷の宮部(滋賀県旧虎姫町、現長浜市)に帰ることなく盛岡で亡くなった。

  この長熙の父がこれから紹介する宮部継潤(善祥坊、中務法印)である。比叡山の山法師であった彼は還俗して浅井氏の家臣となったが、織田信長の浅井攻めのとき、羽柴秀吉の調略によって信長に仕えることになった。

  秀吉の与力となった継潤は、但馬・因幡攻略に功をあげ、鳥取城主となり、秀吉勢力と「御弓矢境」となった高梁川(岡山県)以東の毛利輝元の侵攻を、ここで食い止めた。秀吉が後顧の憂いなく統一事業を推進できたのは、このような影の功績があったればこそである。

  また天正15年(1587)、九州征伐の折、薩摩の島津義弘との大戦(おおいくさ)、根白坂の戦いで「法印(継潤)が事は巧者のものにて、天下無双」(川角太閤記)と秀吉をうならせほどの活躍をみせた。狂喜した秀吉は即座に熊本一国を継潤に宛行ったといわれている。

  とはいっても、宮部継潤をご存知の方は少ないであろう。この宮部継潤こと、宮部善祥坊は秀吉を主人公とした小説やテレビドラマなどには登場したことがない。

  出身地の宮部(滋賀県長浜市)などにあっても知名度はいたって高いとはいえず、まして盛岡など東北の人間にとっても「それは誰ですか」程度なのである。彼と同様に秀吉の側近であった蜂須賀小六、竹中半兵衛、黒田官兵衛など、必ずといっていいほどドラマに登場するが、宮部継潤がテレビの顔になることはまずない。

  しかし、4〜5年前、滋賀県愛荘町で宮部継潤宛の豊臣四奉行人からの検地報告を求める御前帳が発見され、宮部継潤の名が注目されるようになった。それでも生涯については断片的で、全貌はこれからといった感じである。

  さて、話は戻るが、九州の陣の後も奥州仕置のため秀吉に従い会津まで出陣して、伊達政宗・最上義光などを指南している。

  そして朝鮮出兵が始まる。秀吉の構想によれば、朝鮮を従えた後、おいの秀次をその国王となし、継潤をその参謀として、朝鮮支配を任せる計画があったようで、秀吉の信頼度がうかがえる。

  一方、彼は鳥取の支配を息子長熙に任せ、自身は秀吉の側近として、伏見や大坂に居り、太閤蔵入地の検地や各大名との仲介(取次)など、豊臣政権下の奉行人としての働きが際立っている。その意味で石田三成など、五奉行以前の秀吉執政官として位置付け、蜂須賀正家や黒田孝高と共にその行政手腕を高く評価しなくてはならない人物である。

  晩年は秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)にも選ばれて、慶長4年(1559)閏3月、秀吉に遅れること1年、息子宮部長熙の改易の悲運を見ずして京都で亡くなった。

  このように僧兵あがりの風変わりな法師大名、宮部継潤を中心に盛岡ゆかりの戦国武将として、これから何回か紹介するものであるが、現在もその子孫の方は盛岡市山岸にお住まいである。当家に残された宮部文書(岩手県戦国期文書所収)をひもときながら、まず、本来盛岡とは無縁な宮部一族を理解してもらうために、宮部氏が盛岡に配流された歴史的背景(関ケ原合戦による改易)、その後の南部藩士としての活躍の動静をうかがいながら話を進めていきたいと思う。

(八幡平市博物館元館長)

 


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