盛岡タイムス Web News 2013年  5月 23日 (木)

       

■  〈風の筆〉2 沢村澄子 「わかってほしい」

 福山に一泊、翌日大阪へと移動した。実家に着いたのは夜の7時で、父は既に夕飯を済ませており、姿が見えず、先に風呂だ、いや座れ、風呂が冷めるがおかずも冷める、だいたい来るのが遅すぎる、と攻め立てる母と二人で、どんな味かが分からないような食事。

  数年前に母は習字を始めたらしい。母の部屋の壁には、ぐるり一周、稽古した紙がぶら下がっている。「はぁ。喪乱帖(そうらんじょう)を書いてるんやね」「それは何や?」「今、お母さんが書いてるやつや」「そやから、それは何や?」

  今、自分が書いている手本が何かを母は知らない。自分の名前を草書で書いたつもりで、それが文字とはいえないものになっていても、まるで関知しない。わたしは何も言わず、しかし、母は容赦ない。わたしの作品に「なんでこんなワケの分からんもんを書くんや!デタラメや!何のために大学まで行ったんや!」と、怒る怒る怒る。怒り続ける。

  母が半紙を3枚持って来た。どれが一番いいかと聞く。これ、と答えると、妹のところへ行って「えらいこっちゃ。スミチャン、当てたわ。3年前のより今年書いた方がエエて言うた。あの子、ホンマに見えてるんやろか…」。妹が「今度は5枚で試してみたらどう?」。

  聞こえてないふりでトイレに入った。しゃがんだ目の前のカレンダーには母の字で、「大型ごみ」「不燃物」などという書き込みがある。 

  だからと言って、母を捨てるわけにはいくまい。妹の方はどうかな。捨ててしまってもいいかな…。

  カラン、カラン、と音立てながら紙を巻き取る思案のそのうち、ついには、やはり捨てるのならこのワタクシを、真に捨てるべきはこの自分なのだと思われてくる。

  誰しもが人に理解してもらいたい。分かってほしいと思う。誰かに愛されていたい。でも、そんな虫のいい話はないね。そう思うのならなおさら、そんなココロ、そう思う自分を捨てて、人を理解すること、愛することに、努めること。

  ドアの向こうに母が立っていた。ニコニコしながら次の要求を出してくる。「今度の個展、いつ? 東京?盛岡?大阪でやったらどう?端っこの方でエエから、お母さんのも一緒に飾ってェな。お母さん、友達呼びたいねん」  (盛岡市、書家) 


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