盛岡タイムス Web News 2013年  5月 25日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉316 岡澤敏男 政次郎とシベリア出兵

 ■政次郎とシベリア出兵

  大正7年(1918)4月9日、暁烏敏に宛てた宮沢政次郎の書簡に次のような文面がみられる。「先達テノ中ノ誠意ナキ出兵説ノ立消ニナリタル事ハ国民ノ大多数ニ取リ誠ニ結構ノ事ト存ジマス 併シ当路ニモ如何ハシキ野心家ノ居リタリ又国民ノ一部ニモ軽佻浮薄ノ論議者モアル事故此上トモ油断ハ出来マセヌ」

  言うまでもなく「出兵説」とは「シベリア出兵」のことで、大正6年(1917)11月7日(露暦10月25日)に樹立したロシア10月革命政権に対して英仏伊の連合国と日米も加わり干渉するために派兵することを意味している。

  すでにロシア革命直後から、参謀本部においてシベリア出動計画について検討が重ねられ、シベリア鉄道管理のための所要人員の調査もされていて、単独でもシベリア出兵の動きがみられたという。日本の指導者は千載一隅の好機と捉え大陸へ勢力伸長という目的では異論がなかったが、その実現方途は多様で障害もあった。陸軍部内の少壮将校や外務省若手官僚による推進派に対して当時の対外政策に参与した「外交調査会」の中心的メンバーである政友会の総裁原敬および牧野伸顯はシベリア出兵政策に強く反対し、『大阪朝日新聞』や『東洋経済新報』は出兵そのものに反対する論陣をはっていた。政府部内の出兵推進論者も日本経済がアメリカに依存する現実を無視し得ないので、自主的出兵を主張する外相本野一郎はアメリカからの同意を求めて交渉に臨んだがアメリカ政府は大正7年(1918)1月20日、日本政府に出兵反対の警告を発するようにモリス駐日大使に訓電してきたのです。その後、国際情勢の変化によって3月1日にアメリカ政府は日本の出兵への英仏政府の共同提案に加わらないが反対する意図はないとの対日回答案を作成したがウイルソン大統領によって保留され3月5日に新しく起草された回答案が国務長官に手交された。この回答案がモリス大使の手から日本政府に正式に提示されたのは3月7日のことだった。日本政府はこの回答のうちに「もっぱら抗議と干渉反対の意思のみを発見し、やむなく干渉の実現を他日に期することとし、英仏の強い支持にもかかわらずシベリア出兵の延期を余儀なくされたのである」『シベリア出兵の史的研究』(岩波現代文庫)と細谷千博氏が述べています。

  政次郎の書簡で出兵説が「立消ニナリタル事」というのは、米国大統領ウイルソンが書き直した3月5日の対日回答文によるものと思われます。暁烏敏が『汎濫』(大正7年7月15日号)に「私は今日の我国の人達が小さな国家主義や民族主義に籠城して、征服主義と侵略主義に捕へられて居るのをあき足らず思ひます。この身体があり、この家があり、この村があり、町があるやうに、国もあり民族もあります。然しながら、この世界は一民族の、一国家の、一個人のものではなくて、もっぱら広い広い壇(垣)のとれた広い世界であることを忘れてはなりません」との感慨を述べた背景には、米国大統領ウイルソンの演説があったという。その演説とは3月5日の対日回答文のことだったのです。

  シベリア出兵の延期を余儀なくされた日本政府の寺内正毅首相は、それから5カ月後の8月2日に世界に向かって「シベリア出兵」を宣言するのです。

  ■細谷千博著『シベリア出兵の史的研究』
         「あとがき」より(抜粋)

 シベリア出兵の歴史は、日本軍部にとっては失敗の記録であり、戦前はその研究はいわばタブー視され、この戦争において日本が対外選択面でおかした誤りや軍事行動の醜悪な一面に糾明のメスを入れることは、少なかった。しかしこの戦争は、次の世代にとって学ぶべきこと教訓を実に多く含んでいる。たとえば、シベリア出兵の歴史について深い知識をもつ軍人であれば、日中戦争の際、それを活用し、反省の材料にしえたはずである。いったん派兵すると、撤兵がいかに困難な業になるか、シベリア出兵の際の単独出兵の歴史がこれをよく物語っている。太平洋戦争に突入した一九四一年、戦争の回避をもとめた日米交渉も、中国からの日本軍の撤兵問題で難航、ついに暗礁に乗り上げ、戦争となった。

  さらにいうと、シベリア出兵の歴史に含まれる教訓は、今日イラク戦争を考える上でも役に立つはずである。

 


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