盛岡タイムス Web News 2013年  6月  15日 (土)       

■  〈賢治の置土産〉319 岡澤敏男 嵌合する父と子

 ■嵌合(かんごう)する父と子

  昭和25年に暁烏敏は蔵書5万冊を金沢大学へ寄贈して図書館に「暁烏文庫」が設けられた。その「暁烏文庫」に暁烏敏宛て宮沢政次郎の書簡(61通)が所蔵されているのが栗原敦氏によって発見されたのです。

  この書簡集には「手堅く商売をし勤倹につとめた」質屋・古着商(大正15年に金物・電動機具商に転業)経営者政次郎の明治39年(32歳)から昭和3年(54歳)に至るもので、政次郎のもっとも油の乗り切った時代のものでした。すでに幾つかの書簡を通じて片鱗を垣間見ているが、「堅実と質素」な家風と謹厳なる家長の風采をした政次郎とはまったく別世界に在住する篤信深い知識人の厳しく時世を見つめる率直な肉声が聞こえてきます。その声は「たとえ宮沢家からどんな資料が出されていても、私のみる政次郎は、まったくやりきれない小型の俗物」(講談社現代新書『宮沢賢治』)と言い切った青江舜二郎には届かなかったらしい。その声の背景には仏教の近代化を進めた思想家暁烏敏師によって教化された声紋と読み取れるのです。

  そして「これらの書簡を読む時、そういった一般性をこえて、宮沢賢治というひとつの存在が、まさに親子二代の産物に他ならぬ、という思いを禁じえない」と栗原敦氏が書簡集の「はしがき」で述べているとおり、政次郎と賢治親子の精神性にはぴったり嵌合(かんごう)する場面がある。それは昭和8年作の不思議な作品といわれる短編『疑獄元凶』が執筆されたその日、作者賢治と父政次郎の嵌合する場面を無言の時間が刻んだ証言でした。

  この短編『疑獄元凶』のモデルは、田中義一内閣の鉄道大臣だった小川平吉(作品では高田小助)です。小川は長野県の名家出身の弁護士で、明治から昭和前期にかけて国士として活躍した政党政治家でした。しかし田中内閣の鉄道大臣だった昭和4年に「五私鉄疑獄事件」に連座して収監され政治生命を失った。

  「五私鉄疑獄事件」とは@北海道鉄道の一部路線の政府買上げA博多湾鉄道汽船の一部路線の政府買上げB伊勢電気鉄道の路線延長免許申請の許可C東大阪電気鉄道路線敷設申請の許可D奈良電気鉄道の路線延長免許申請の許可を請託贈賄し、小川が収賄したとの容疑で昭和4年9月収監されたが、裁判は昭和8年5月までに1394回の公判に及び、検察と弁護団のすさまじい法廷のやりとりに世間の耳目を集めたものらしい。8年5月の第一審判決で小川は無罪を勝ち取るが、検事控訴が行われ翌9年の第二審で有罪判決となり、被告人控訴などを経て昭和11年に有罪の決審を受けるまで7年にも及んだ昭和初期の大疑獄事件でした。

  この短編について森荘已池氏が「イーハトヴ通信」(『新修宮沢賢治全集』第14巻月報13)に『「疑獄元凶」寸見』の題で興味深い一文を寄せている。

  政次郎が賢治に「お前の書くものは、自分だけにしかわからないものだ。大衆が読んで、すぐわかるようなものを書いたらどうだ」と第一審判決(昭和8年5月16日)の新聞記事を読み上げたという。賢治はそれを聞いて二階の自室から半紙と万年筆を持ってきて、父と弟の居る常居の机に座り4枚半の半紙に書いたものが『疑獄元凶』だったという。その半紙を渡されて、政次郎は黙読し、読み終わったが褒めることも、くさすこともなく何も言わなかった。(黙して語らずということは、褒めたこと)と荘已池氏が述べています。

  ■「疑獄元凶」寸見(森荘已池による)抜粋
  宮沢賢治の晩年昭和八年作の「疑獄元凶」は、いったいこれは何だろうと思うような不思議な作品である。これが書かれたとき、賢治・清六・父の三人が、同じ常居といわれている部屋にいた。賢治は、裏二階の病室から降りて来ていた。「疑獄元凶」は、この常居で、すらすらと一気に書かれた。

  その朝、常居の入口に、バサッと愛読紙の「時事新聞」が配達された。五月十八日の日付だろうと思われる。それには、私鉄、売勲、合同毛織疑獄の被告二十四名の判決の記事があった。新聞を見て、政次郎翁が言った。賢治に向ってである。「お前さんの書くものは、自分だけにしかわからないものだ。大衆が読んで、すぐわかるようなものを書いたらどうだー」と。そして手にしていた新聞に目をくばりながら、政界、官界の大物、小川平吉・天岡直嘉などの名を読み上げた。それを聞くと、賢治は、すッと立って二階の自室にゆき、半紙と万年筆を持っておりてきた。彼は常居に座ると同時に、物もいわずに書き出した。…そのそまつな半紙に、一枚、二枚、三枚と書き、四枚目は、半分だけ手紙の草稿が書いてあり、半枚と五枚の原稿が書き終わった。「疑獄元凶」である。

  その半紙を渡されて、お父さんが黙読した。二人は、かたずをのんで、ようすを見守っていた。五枚半の作品を読み終わったあと全く何もいわなかった。ほめることもなく、くさすこともなく、ふだんのままの顔つきであったーと、清六さんが言っている。

  このときのお父さんの態度は、私には、よくわかった。(黙して語らずということは、賞めたことなのだと思う)。賢治は、この作品を書いて、四カ月たって亡くなった。


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