盛岡タイムス Web News 2013年  6月  22日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉320 岡澤敏男 父と子のモチーフ

 ■父と子のモチーフ

  短篇『疑獄元凶』は父政次郎のテストに回答された賢治最晩年の研ぎ澄まされた文章です。下書きも、再考する余地もなく父の面前で5枚半の半紙にすらすらと万年筆で一気に書かれた真剣そのものの回答だったのです。父が賢治に与えた課題は「大衆が読んで、すぐわかるもの」という条件で、今朝の新聞が報じた政界の大物小川平吉らに関する疑獄事件の判決内容を素材としてテストしたものでした。

  父の目を背にしながら賢治はどんな思いで書いたのか。父からのテストは〈あれ〉以来のことでした。

〈あれ〉とは大正8年1月、入院した妹トシ(日本女子大在学中)を看病するため在京中に、父に「この侭当地に於て職業に従事する様御許可願ひ度」(1月27日)と申し入れたところ、「父から折角研究するよう返事があった」(堀尾年譜・1月29日)ことを指しており、賢治は具体的な構想を挙げて回答したがテストはパスしなかった。賢治は「私の職業等は又後の問題に致しても宜しく候へどもそれ程迄稼ぐと言ふ事が心配なるものに御座候や」(2月5日)と悔しさをにじませて父に便りをしている。しかしテストに失敗しても「私の職業等は又後の事」という余裕があった時期でした。今回はあと4カ月で死期を迎える賢治にとって「又後の事」はなかったから、渾身の気力を絞って父のテストに回答したものと思われる。5枚の和半紙に書き下した『疑獄元凶』は、「一種切迫した気合いがこもり、熾しい情念のほてりのごときもの」(伊藤真一郎)がひらめいた居合い抜き的一刀だったのです。

  この短篇は被告(疑獄元凶)の高田小助(小川平吉)と若手検事との対告(たいごう?)がモチーフであるが、元法務大臣だった被告の自意識過剰な緊張した内的独白を中心とした心理劇として描かれている。その梗概について「公判開始直前の被告席。まずは検事の慇懃な態度に自尊心を満足させた〈わたし〉だが、壇上から上司の儀容で見下ろされた途端、気圧されて動転、急いで静寂な風景を想起して平静を取り戻そうとするが効はない。負けじと視線を斬り返すうち、向こうの眼が牢獄の覗き窓に見え始める。党の責を負うている己の対面を損なうまいと、視線を転じたり漢詩を案じてみたり、辛苦焦燥するが、不安と動揺がますます昂じる」(伊藤真一郎、『宮沢賢治必携』別冊国文学・bU)と評されている。さらに伊藤氏は「この文体を浸すのは詩人(賢治)自身の眼であり、恐らくは賢治の生涯を浸したであろう根源の苦悩が、課題が、このなかにある」との見解を述べ、この短篇の背後には「父と子のひそかな葛藤があり、この父と子をめぐる対峙相剋、また渾融の流れこそ、この作品をつらぬく基底のモチーフというべきものではないのか」との指摘には共感するものがある。

  なお『疑獄元凶』の現存草稿は、和半紙6枚による下書稿の60カ所以上にわたり藍インクによる手入れが施されており、『疑獄元凶』の創作メモと合致する「疑獄事件被疑者」(創作メモ24)メモも存在する。まして第3葉に挿入されるべき行ほどの第4葉は、菊池武雄宛ての昭和8年7月16日付はがきの下書断片の裏面に書かれており、5月16日の判決報道とは大幅な時期的ズレが認められる。一気に書下した草稿を父に見てもらった後に、賢治は手を入れ推敲(すいこう)して定稿としたものと思われます。


  ■短篇「疑獄元凶」より抜粋

 わしは冷然無視したものか、気を盛り眼を明にして、これに備へをしたものか。あゝ失策だ!出発点で!何たる拙いこの狼狽!すっかり罠に嵌まったのだ。向ふは平然とこの動揺を看収する。早く自然を取り戻さう。一秒遅れゝば一秒の敗、山を想はう。建仁寺、いや徳玄寺、いけない、さうだ、清源寺!清源寺裏山の栗林!以て木突となすこと勿れ、汝喚んで何とかなす!にい!!!もう平心だ。よろしいとも、やって来い。生きた世間といふものは、たゞもう濁った大きな川だ。わたしはそれを阻せんのだ。悠揚としてこれに準じて流れるのだ。時には清波も来って涵す。それを歓び楽しむことで、わしは人後に落ちはせん。しかし畢竟大江である。徒して渡れる小渓ではない。その実際に立脚せんで、人の裁きはできんのだ。咄!何たる非礼のその直視!

  断じてわしも譲歩せん。森々と青いこの対立、
     森々と…森々と……森森と青い………
                    以下略


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